血の花婿

 

 旧約時代イスラエルの指導者として神さまに選ばれ立てられたモーセ、彼がイスラエル人をエジプトにおける四三〇年間の奴隷生活から導き出す者として使命を受けた時、献身の招きにすぐ立てずにいると、主はしるしとして、献身力の弱いモーセの手にある杖を蛇に変えたり、戻したりする、悪魔をも制するような賜物と、片手に杖を持つモーセの手をらいに冒したり、再び元の肉に戻したりするいやしの賜物、さらにはナイルの水を血に変える奇蹟の賜物を与えられました。

 

今もありふれたモーセの手にある杖のような十字架の木、これを通して奇蹟が起きます。十字架の言葉を手にしたら、誰でも大胆になって献身的な行動がとれます。しかし、これらのしるしにもかかわらず「私は言葉の人ではない」と依然、神の賜物と召しを拒むモーセに対し、主は代弁者アロンを助手として与えられました。

 

 ところがこんなにまですべてを準備された良き主ですが、ある日、モーセがエジプト・パロ王に出会いに行くべき途上、一夜を明かす場所でのこと、主はモーセに会われ、彼を殺そうとされました(出エジプト424)。

 

なぜでしょうか。私はこう考えます。モーセがまだ生きていたからです。死ぬべき自我があったからです。彼の内には今だ心定まらず、召しを拒む人本主義的な不信仰があったのです。それは主の御心と反対に行ってしまう不従順の心と足です。御心の宣教地はエジプトです。しかし、かつて殺人により命からがら逃げ出したあのエジプト、そこでの栄光の四年と今の低くされた四年、荒野にて羊飼いの貧しい我が身、さらにはパロ王に対して主からの強行的奴隷解放宣言。モーセは一切を思いめぐらし足が重くなったことでしょう。行動の基本、その足が御心の方角エジプトから次第に四五度から九〇度そして一八〇度と回れ右をして向きを変えたかもしれません。まさに主の御旨からの夜逃げ状態です。

 

 その時、生涯の召しを捨てた不従顔なモーセに対して、主は厳しく会われ、彼を殺そうとされたのです。現在も、召された者が使命の道に立たなければ、この世にいる必要はありません。世の道も閉ざされ、後はただ死を待つばかりです。献身を放棄して、死にそうになったモーセに対し、妻チッポラはその時、火打石をとって自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけて告白しました。

 

 「真にあなたは私にとって血の花婿です」

 

 すると、そこで主はモーセを放たれたのです。彼女はその時、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのです。モーセの不信仰とは全く関係ない、まだ童貞の聖い子供の生殖器の包皮の先端の皮がモーセのために切られ血を流し、それを両足につけて神さまへの従順、割礼契約となったのです。

 

 モーセの不従順だった両足には息子の包皮の血がついたのです。実はこの血こそ私たちの弱く不従順な意志をあがない、その足を御心の道へ向かわせる献身の力の源、イエスの血潮のひな型、模型だったのです。お分かりになるでしょうか。ゲッセマネで流され足下に落ちたイエスの血潮の汗、この血潮が私たちの足につくとき、イエスさまの道へと導くのです。

 

 このことは、主に献身して仕える祭司がまず、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指にほふられた雄羊の血を塗りつけて、すべての行動力の源を聖別してから、任務についたこととも同じです(レビ823)。

 

今の恵みの時代はイエスの血潮の割礼を私たちの体ではなく、行動力の源である心に受けると聖別され、献身的任務に向かうことができます。そしてチッポラの預言どおり、イエスさまこそ本物の「血の花婿」です。ゲッセマネの園で血の汗を流して祈り、人間の弱い心をあがない、強い献身力を受けて、御言葉に従い十字架の道へ行かれたお方です。その血潮により私たち教会を愛する花嫁として買いとられました。血の花婿イエスさまをたたえ、その血潮により心を強くされましょう。

 

 イスラエル社会では男性は皆、律法に従って、生後八日目に割礼を受けるため、清潔となり、この肉の割礼のゆえにイスラエルの結婚した男女は、最も性病の少ない民族となっています。今日、神さまのイスラエルなるクリスチャンもイエスさまの花嫁なる教会を霊的病から守るために早く成長して心の割礼を受け、心を包む皮なる肉を切り捨てる必要があります(申命記1016306)。

 

「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酪酎、遊興、そういった類のものです。……こんなことをしている者たちが、神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ51921

 

 聖餐式とは、本来イエスさまの罪なき十字架で裂かれた肉体を意味する、パン種の入らないパンを裂いて食べ、流された血潮を意味する葡萄酒を飲むことにより、主の十字架を永遠の記念として心に留め、その意味をかみしめる体験です。飲み込んで内に受け入れることにより、キリストと私たちが一つになります。しかしながら、初代コリント教会ではいつまでも偶像問題や不品行に関わって、肉いっぱいのふさわしくないままの状態で聖餐式に預かり、主の体なる教会と主の血潮に対して罪を犯して裁かれ、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢いました。御体をわきまえ知るには悔い改めの祈りが大切です。この祈りの中で霊的に不清潔で不用な肉に対して、きっぱりと決別して、新たな心にキリストの血潮の割礼を受け、清い大人クリスチャンとなって信仰の成熟目指して前進できます。

 

心の割礼を受けた大人クリスチャンには献身力が与えられます。イエスの血潮を基に祈り求める時、行くべき十字架の道へと踏み出す勇気と決断力が与えられます。最も行きたくないあのエジプト、会いたくないあのパロ王であるあの宣教地、あの人の所へも大胆になって出て行き、福音宣教できます。イエスさまは言われました。

 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。」(ルカ923

 

あなたの日々負うべき十字架とは、この日行くべき職場でしょうか。家庭でしょうか。学業、人間関係、教会の奉仕等、与えられた十字架が重すぎると嘆く時にもイエスの血潮による祈りは耐えて背負う力を与えます。十字架を背負えば、後には復活の栄光もついてきます。あなたが十字架を背負い歩き出したなら、さらに御言葉に従順して日々を生きる力もイエスの血潮による祈りで与えられます。

 

「御言葉は私たちにとって難しすぎるものでも遠くかけ離れたものでもありません。みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」(申命記3014のです。

 

 御言葉に従い、あなたを迫害した敵を許さねばならない時、イエスの血潮を基に祈りましょう。肉の思い、敵意は切り捨てられ、全き赦しと敵さえ愛せる広く大きな心が与えられます。御言葉に仕える伝道の勇気や献身の勇気が乏しい時にも、御言葉に命を懸けて従われた、イエスの血潮を基に祈りましょう。あなたがイエスの血潮を土台に立ち上がれば偉大な主の仕事を立派に成し遂げられます。

 

 私は早朝祈祷会で講壇にひざまずいて祈る時、時々両手をあげて祈ることがあります。その理由は、「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」(詩篇1342)と書いてあり、ここで「ほめたたえよ」という原語には「トーダ」、感謝を持って両手を差し出し伸ばすという意味があり、詩篇一〇七篇三三節では「主を讃美せよ」と書いてあり、ここでの「讃美」は「ヤダ」という原語で、手を挙げて礼拝する、手を投げ出して神さまを楽しむ、という意昧があるからです。他にも聖書中、手を上げて礼拝するように教えている御言葉があります(哀歌341、詩篇282634、第テモテ28)。

 

 しかし、実際に御言葉通り実践してみると、三〇分くらいで両手は重くなり、肩がこり、体も圧迫されて手が下りてしまいます。ひざまずく両足も(ローマ1411、エペソ314、ピリピ210)しびれて痛く棒になります。このような体を張った祈りで、いつも思うことはイエスさまの十字架です。主は両手を釘打たれて高く上げられたままつるされたのです。その体重から推測すると、イエスさまの御体が十字架上垂れ下がったときの両腕の角度は六五度であったと考えられます。その御体はどんなに激痛が走ったことでしょうか。御体には全体重がのしかかって、垂れたけどもその両足にも釘が打たれていたため足を仲ばせる足場もなく十字架上、両足の膝をかがめているような体の形になっていたのです。それゆえ私たちがひざまずき両手を高くあげて主に祈る時、イエスさまの十字架と同じような形になって、実際体験的にイエスさまの十字架の御苦しみの万分の一でも理解する助けになります。

 

 人間は動物的本能で敵と戦う時、体の中でも比較的柔くて弱い臓器のある腹部を身構えて、拳を前にガードしてボクサーの姿勢をとって隠す性質があります。しかし、すべての敵を倒して、もはや敵がいないことを確信すると勝利に満ちて、西洋ではガッツポーズ、日本では万歳をして両手を高くあげ勝利宣言します。

 

私たちの両手を高くあげた祈りも、また敵なるサタンの前ではすでに信仰による神さまの軍の勝利宣言であり、主の御前ではすべてを降参して委ね、明け渡す信頼のしるしとなります。肉の拳を捨て、信仰で手をも心をも天におられる主に明け渡し委ねる事です。

これは血肉の戦いではなく霊の戦いだからです。