第三にイエス・キリストの血潮は、私たちを呪いから解放して祝福します。

 

祝福と呪い

 

 私たちが聖霊さまに満たされると呪いからも解放されます。

「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ313

 

 イエスさまに使われたローマ軍の死刑道具、十字架はラテン・クロスという種類の、十字の形をもち縦のが横のよりも長く、樹皮をはぎ、葉をむしり取っただけの荒削りのでした。

の高さは明確ではありませんが、ハマンの立てさせ後に自分がつけられた柱の場合、王妃の宴会の席から見えるように高さ二二メートルもある特別高いものでした。ここでハマンに使われた柱のヘブル語はスタウロスすなわちこの柱は十字架です。

 

しかし、イエスさまに使われた十字架の柱は、頭上の岩棚に見せしめのため大きく掲げた罪状書きが道行く通行人にもはっきり読めるような高さにあり、ローマ兵のわき腹への槍や、酔い葡萄酒を葦の棒につけたものを伸ばすと、届くぐらいの一般的な高さでありました。

 

 ユリウス・カイザルのガリア戦記によると蛮族のゲルマン人は高身長、金髪、碧眼で、古代ローマ人は、背が低く、黒っぽい髪で、肌は小麦色です。 出土している道具やサンダルなどからおおよ古代ゲルマン人の平均身長は七二㎝古代ローマ人の平均身長は五五㎝と考えられます。

 

しかし、背が高いゲルマン人恐れたローマ兵は名将カイザルの戦略と最新武器を駆使して圧勝。その武器が主武装のピルムと呼ばれた投げ槍です。全長はから〇m、重量から㎏、最大射程距離は約三〇m。そう考えると身長五五㎝のローマ兵が最も長いタイプのmの投げ槍を手に持って十字架めがけて少し斜め頭上に伸ばしても最大到達高はm以内です。イエス様の十字架上のわき腹が最大でも地上高m以内に位置していたことになります。

 

そうなればわき腹でm、十字架の頭上の縦長部分の木を加えても恐らく、十字架の地上高は一番高いところでm位と推測されます。大工の世界で換算すると約一八尺の角材。強くしなりのある樫の木mなら総重量一〇〇kg以上はあったと思われます。イエス様が背負わされた十字架の横木に至ってはその半分以下くらいの重量でしょうか。

 

ちなみに槍で十字架上のイエス様が気絶や仮死状態でないか等、生死確認をした馬鹿なローマ兵はわき腹を槍で割いたとき、斜め真下で一~二リットルもの出血を直接浴びたと思います。しかし、信仰なくイエスの血潮を浴びても救いはないです。

 

私たちがこの十字架を見る時、それは救いのシンボルであり、象徴的な意味合いもよく、縦のが横のよりも長いことは天と地を結ぶ神さまとの縦の関係を横の人間関係よりも、もっと長くしっかりと第一に結ぶことを教えており、十字架はすべての否定的、破壊的なマイナス要素さえも肯定的、建設的、創造的なプラス思考へと変えてしまう、不可能を可能にした神さまの力を現わす美しいものです。

 

 ところが同じ十字架を律法を知るすべてのユダヤ人が見る時、それは呪いの象徴であり、木に架けられたイエスさまこそ呪われた者であると考えられ、軽蔑の対象として見下げる者となったのです(申命記2133)。

 

 呪いとは、創世記三章一七~一八節で始めの人間アダムが罪を犯してから全世界に入って来た罪の報いです。アダムゆえ地は呪いを受け、どんなに額に汗して種まき、労働して期待しても、そこからはただ地をふさぎ、人を害する無益ないばらやあざみが生じてきたのです。

 

も知らずに呪いに満ちた環境に入っていき、そこで種を蒔いて失望を刈り取っている人が多くます。聖書には「いばらの中に種を蒔くな」(エレミヤ43)とありますが、成功的な良き実を結ぶ人生のためにはまず、いばらを焼き払ってから、種を蒔かなければすべてが無駄になってしまいます。いばらは食べられる実を結ばない植物であり、建設資材の角材にもならない無益に土地をふさぎ、人々が忌み嫌う全くの呪いの象徴です。環境から、まずいばらのような呪いを取り除くことが先決課題です。呪い信じないと言う人もおりますが、聖書では、明らかに世界には命と死、祝福と呪いが実在し、私たちもその子孫もを得るように祝福を選ぶよう勧めています(中命記3019)。

 

世には祝福のゲリジム山に立つような人生もあり、呪いのエバル山に立つような人生もあります(申命1129)。それは一種の法則のようなものであり、信者であってもなくても、地上にいる限り、すべての人がいずれかの影響力を背後に受けながら生活しているのです。申命記には、主がモーセに命じて結ばれた祝福と呪いの法則について、その契約にはその当時まだ生まれていなかった今日の私たちをも含まれていると言われました。

 

「しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」(中命記291415

 

祝福と呪いの法則の対象は私たちも例外ではありません。この世でも国際的には条約、国家には法律があり、社会には道徳があり、会社には社内規則、学校には学則、道路にも交通法規があります。そして、これらの法則を一方的に無視して、反した社会行動をとるならば、それ相応の制裁を身に招くことになります。条約を破れば経済制裁や戦争、もし国の法律に反すると逮捕処罰されます。道徳を無視すると世に白い目で見られ阻害されます。社内規則を破ると減給や出世の遅れ、左遷、解雇もあります。学則を破ると停学や退学もあり、交通法規を破ると事故に遭います。

 

 ちょうどこれらと同じように、霊の世界にも法則があったのです。霊の世界のゲリジム山とエバル山とは、イエスさまを信じ私たちに与えられた命の御霊の原理と、世にある罪と死の原理です。命の御霊の原理とは簡単に言うと、私たちが真剣に祈れば祈るほど、命の源イエスさまに近づき、それに比例して祝福されるものであり、罪と死の原理とは、聖書に反する行ないにより、我が身に招く呪いです。それゆえ、誰でもこの呪いの原理に誤って、巻き込まれないように細心の注意を払い、聖書に従って生きることが幸福の秘訣です。

 

イエスさまは払たちを呪いという暗闇のベールから救い出すため十字架の木につけられたのです。その時、イエスさまの御頭にはあのエデン以来の呪いの産物、いばらで編んだ冠が置かれていのです。郊外のゴルゴダ丘周辺に生じていたイエスさまの王冠に使われたいばらとは、植物分布によるとイスラエルの一七種類あるいばらの中でも最もトゲが鋭く、厳しい、「とげわれもこう品種であり、束にしてかまどや火鉢の火付け用として使うかエルサレム周辺では侵人者防止用の生け垣に使うほどの堅い物だったのです。このいばらは一本のトゲが五から六センチはある、鋭い針の集合体であり、ローマ兵はこれで蛇がどくろを巻くようにぐるぐる巻きにして王を皮肉る王冠を作り、イエスさまの御頭に押しつけたのです。

 

王冠とは普通その性質上、王の富貴と栄華を現わすものとして、高価な金や銀で作られ、そこには数々の美しい宝石が散りばめられている結果として重量があります。ダビデ王の頭に置かれた王冠の場合、宝石がはめ込まれており、金一タラントに匹敵する三四キロもの重量がありました(第一歴代202)。

 

そのため王冠とは、軽い帽子とは異なり、王が頭に乗せた後はギュツと押さえつけて頭からずり落ちないように固定する必要があります。イエスさまの御頭にはいばらで作った王冠です。それゆえローマ兵によりイエスさまの御頭に無理やり乗せられた冠は、次に固定のためギュツと押さえつけられたのです。このためイエスさまの御頭は、人間の中で最も大切な脳のある頭から突き刺され、引き裂かれる激痛と共に、額の上で貴い血潮が流れ出たのです。イエスさまは私たちの呪いを除くために身代わりとして、頭から足先まで呪いをかぶられ、呪われた者だけが架けられるはずの十字架につかれたのです。

 

神さまの偉大な犠牲のゆえにどんなにきな感謝を捧げたらよいのでしょうか。イエスさまこそ永遠にたたえられる栄光の王の王です。私たちの呪われた生活を祝福へと変化するために主は来られたのです。イエスの血潮は今も呪いに対抗しているのです。

呪いとは、いかなるものか聖書から実例を簡単に挙げたいと思います。