アダム3

 

またハネをみると気性が荒く短気で、ちょうど雷がピカッと光ると、すぐにドカンと落ちてくるような気質にふさわしいボアネルゲ。訳すと雷の子とあだ名されたのです。その願いはヨハネが日々そう呼ばれることにより、よく自らの短気を自覚して、愛の使徒に造りかえるためでした。

 

 アダムが一匹一匹その特徴にふさわしい名前を付けていったように、最後のアダムイエスさまも一人ひとりの弟子たちにふさわしいあだ名をつけていったのです。確かに共通点があります。ところがここに問題点がありました。当時イエスさまが徹夜祈祷までして十二弟子を選ばれました。

 

彼らは確かに集まったことは集まったけれど、弟子たちにはまだ聖霊さまが注がれていなかったため、彼らには神さまを知る分野の霊が眠っています。魂が自らの罪のために死んでいるのです。

ですから彼らはイエスさまを単なる知識として良く知っているけれど、いぜん偉大な教師あるいは宗教家ていどの認識しかなく、本当の意昧でイエスさまの助け手としてふさわしく合同礼拝することができないのです。

 

 あるのことです。イエスさまは霊的にまだ眠った状態の十二弟子をおともさせて、あちらこちらに旅をされ、福音をすばらしく解りやすいたとえ話を持って宣べ伝えられました。しかしその後のことです。弟子たちがやって来て口々にいいました。

 「イエスさまの言われたメッセージの意味はいったいなんだろう。私たちには全然わからない」

 

 弟子たちは繰り返し世界最高級のリバイバリスト・イエスさまによるミニストリーを直接聞きしていてもいつも誤解ばかりです。イエスさまもまた度々言われました。

 「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか……」

 

霊が違うからです。

 

またある時には、イエスさまは弟子たちをおともさせてゲッセマネの園に行かれ徹夜で熱く祈られたのです。その時イエスさまは弟子ちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」そう言われてから真剣に大きな叫び声と涙をもって、ご自分を死から救うことのできる父なる神さまに「アバ父よ!」と熱く三時間祈られたのです。非常に敬虔な聞き入れられる信仰の祈りでした。しかし弟子たちは同じころ同じ園で「グーグー」と熱く三時間眠り込んでいるのです。

 

 全然音が違うのです。言葉が通じない、霊が一致しないのです。あんまりペテロが大声でいびきをかくから、それはもう野の獣の鳴き声のようです。意志が通じせん。どんなにイエスさまが弟子たちと一緒に合同礼拝をしたいと思ってもとうてい不可能です。ちょうど人間が野の獣と対話できないことと同じような状態です。使徒のき一章六節ではイエスさまが福音を語られ死人を生かし、悪霊を追い出し、病をいやしたり、すべての奇蹟を行なうのを、三年半もの間、目撃した弟子たちがイエスさまの十字架の死からの復活以降にさえ間違った的外れの質問をしています

 

 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか

 

 イエスさまの栄光をすべて見ていながらも弟子たちはまだ霊的に鈍かったから、イエスさまをローマ帝国から救ってくださるこの世の政治的なメシヤとして期待していたほどです。いつもイエスさまと悟りなき弟子たちは、人と動物たちの出会いのように会話が合いません。そこで父なる神さまはこれを見て決心されした。

 

「アダムが一人でいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」と決心された時のようにイエスさまに対しても御心を定められました。

 

「イエスさまが一人でいるのは良くない。彼にふさわしい助け主を送ろう

 

 こうしてイエスさまに助け主を送る準備をされました。ここに奥義があります。初めの人間アダムが造られた時、アダムは深い眠りに落ち込まれました。彼が寝ている間にわき腹が裂かれてが流れ、そこから取り出したあばら骨をもとに助け手エバが造られたのです。

妻エバはいつもアダムと共に合同礼拝を捧げ、アダムを助けられるふさわしい助け手として活躍しました。

 

同じように、父なる神は最後のアダムなるイエスに対して同じ外科手術をされたのです。そのためにはイエスさまをまず眠らせなければなりませんでした。

 

 

 イエスさまは何も罪がないのに、当時の人々から妬まれ憎まれ十字架のにつるされたのです。ずたずたにムチ打たれた御体の傷□からは血潮が流れ、六時間悩みを受けた後に死なれたのです。

イエスさまは十字架で死という名の眠りにつかれたのです。十字架上、死という眠りについたその時です。ローマ兵の一人がやって来て、本当に十字架で死んだのか、それとも単なる気絶や仮死状態に過ぎないのか確かめようと鋭いヤリで残酷にもイエスさまのわき腹を突き刺したのです。

 

するとその瞬間、目撃者ハネによるとイエスさまのわき腹から水と血が流れ出てきたのです。

ちょうどアダムのわき腹も血を流して、そこから助け手エバを取り出したようにです。お分かりでしょうか。最後のアダムなるイエスの十字架上、流れ出たわき腹の血潮、これこそ約束の聖霊さまがふさわしい助け主として世界に注がれるための代価だったのです。イエスさまは三目目によみがえって、昇天後、ペンテコステの日を機会に、聖霊を助け主として注がれ始めたのです。ハレルヤ。

 

アダムが目覚めて助け手エバを喜んだときのように、イエス様も十字架の死の眠りから復活された今、助け主聖霊さまによる教会を喜びます。聖霊さまはイエスさまの全くふさわしい助け主です。

 

 

 しかしここに再び問題が生じのです。父なる神は確かにオリーブ山から昇天して、天国に勝利の凱旋をされた王の王イエスから十字架の血潮を直接受けて、約束の聖霊をこの世界に注がれましたが、聖霊さまは神さまです。神さまであるがゆえに人間のような肉体を持たないのです。

地上に来られたのに霊的な存在で人間の目には見えません。全く聖なるお方で人間には見ることができません。そこでイエスさまの働きを継続的に成し遂げるあかもキリストの妻のような助け主になるには、どこか聖霊さまの住みつく神殿が必要だったのです。聖霊さまは御心によって選ばれました。かつてイエスさまと親しくに歩んだ弟子たちを好んでそこに住みつかれました。聖霊さまはその、初代教会に集う百二十人の弟子ちの上に下られ、彼らは変身したのです。

 

 彼らは以前は弱く恐れおののくでした。ところが内側に神さまの聖霊さまが入ってくるや否や全く別人に変身してしまったのです。今まで死んでいた霊魂が、突然、聖霊さまを受けるや否やよみがえったのです。彼らは新しく生かされたものとされました。弱いものが強くされ、恐れに満ちたものがキリストの証人として、強く雄々しく大胆に福音を語るものに変えられたのです。

 

罪あるものたちが聖霊さまを受けるや否や、罪に打ち勝ち赦された義人として、新しくなって聖い生き方をするように変えられたのです。弟子たちはあたかも自分自身の実力で力ある聖い者に成長したかのような錯覚を覚えましたが、これが内に住まわれた激的変化の源、聖霊さまです。

 

特にイエス様を三度も裏切った経験もつペテロなどは、聖霊様を受けるや否や全く新しい人となって、今度は絶対イエスさまを拒まない伝道者となって立ち上がりました。ペテロはまさにイエスさまのふさわしい助け主聖霊さまを受けてキリストのふさわしい妻のように活躍して働き始めまし

イエスさまと一緒一致した霊と真心をもって、父なる神に合同礼拝を捧げられるペテロに変えられたため、初代教会は神の国が力強く臨在し、悪魔の働きが滅ぼされていきました。かつてイエスさまはこのようなペテロを慈しんで預言されました。

「あなたはペテロ。岩です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」

 

初代教会の柱として用いられた使徒ペテロは確かに力ある堅い岩のような信仰の指導者として動じることなくリバイバルを次々起こして使命を果たし、最後にはローマ軍の迫害が攻め寄せる中、一度は難を逃れて教会から逃避しましたが、聖霊さまに立てられた代表者として悔い改め、再び迫害の只中に堂々と戻っていく、実に殉教の死に至るまで、主イエスさまに従う従順な助け手となれのです。

 

その時、ユニークな発想を持つ使徒ペテロは、主と同じ十字架刑を畏れ多く考え、自らの申し出によって逆さ十字架という形で、頭を下に足を天に向けながら召天しました。後に使徒ペテロの殉教したまさにその場所には、聖徒たちが集ってペテロの墓を建て、さらに今日ではその上に教会が建てられした。これが有名な美の伝道と言われた町バチカンです。バチカンにある大きく美しい数々の教会が建築された当時には、まだ文字が一般的には普及していませんでした。そこで教会堂の内壁や天上に壁画として聖書の内容を見事に描いて布教したものが今日でも多くの観光客を引き寄せ、視覚を通して福音にふれるチャンスの場となっています。

 

イエスさまの預言どおりに、使徒ペテロの上に教会が建てられたのも、ペテロが聖霊さまを受けて死に至るまでも従う者に変えられたから成就したのであって、聖霊さまを受けることはこれほど重要です。

 

 

 さらにAD三百十二年には、ローマ皇帝コンスタンティヌス世の救いを機会に、あれほど迫害していたローマ全体がキリストの御前に屈服して、キリスト教を国教に定めてしまったのです。聖霊さまは力強く偉大です。聖霊さまを受ければ誰であれ変えられ、かつては野の獣のように言葉の通じなかった弟子たちや、強暴な種類の牙ある獣だった迫害者たちもイエスさまの働きに役立つ助け手になれたのですから。イエスさまから雷の子と名づけられたハネ、彼も聖霊さまを受け新しい人に変えられて、愛の使徒と呼ばれるようになりました。

 

ハネは愛の使徒にふさわしく、ハネの第一、第二、第三の手紙の中で繰り返し愛の重要性を説いたのです。伝説によるとパトモス島に島流しにされた使徒ハネは、殉教をのがれ九〇歳以上生きてキリストの証人として重んじられ、老人になってからも教会での説教はいつも愛し合うようにとの激励だったそうです。もともと激しやすかったハネが、忍耐強く愛を説く使徒へと変身できたのも、聖霊さまの働きだったのです。聖霊さまを受けることだけが、たちをイエスさまのふさわしい助け手とならせ、イエスさまと同労できる絶対条件なのです。

 

 私も個人的に考えてみると、私がイエスさまを信じて聖霊さまを受ける前は、イエスさまと同労ができない野の獣のような存在で神さまと言葉が通じない者でした。私が一七から教会に行き始めて一九歳で聖霊さまを受けるまでの間、暴れに暴れました。私が一番暴れた理由とは、人生の生きる目的を喪失していことです。なんのために人は生きて生かされているのか全く意味がわかりません。

 

おもしろおかしく生きたほうがいいのではないだろうか?そう思いながら、めちゃめちゃに騒いで遊んでいました。ある時は、友達と酒をがぶ飲みして酔っ払い、その勢いで道端に行き騒ぎして「ガオー」と叫んだりしました。

 

またある時は、ささいなことで激怒して犬が「ワンワン」と吠えるようにどなったり言葉の通じない者でした。教会人が救おうとどんなに説得しても動物と人間が言葉が通じないように、霊が死んでいた私と教会の人は話しが通じません。そのため始めの教会生活二年間は私の場合、求道者というよりは実質迫害者のように、教会の人が答えられないような難解な質問ばかりして困らせていました。本当に自分が救われようとしたものでもなく礼拝に関心がありません。

「みんなで祈りましょう」と言って会衆が祈る時も、私は祈らないでちゃんと目を開けていました。本当に野の獣のようなでしたからどうしようもありません。

 

ところが変身する時がきました。悪いことをしすぎて、ちりも積もれば山となるように、私の中に山のような罪責感の重荷がやってきました。なんかあんまりむなしくて死にたくなったのです。神さまは相変わらず解らないし、自分は野の獣のようで人生はめちゃめちゃだと思いました。

それである時、あまりに苦しいので「一度まじめに祈ってよう、もしかしたら本当に神さまがいるかもしれない」と思って真剣に祈りまし

 

祈っその時、その場で聖霊さまが私に注がれたのです。は圧倒されてその場で泣き崩れて倒され、聖霊さまがさらに物凄く熱く注がれため、私は新しい人に変えられたのをはっきり感じました。今まで神さまがそんなにわからなかったのが、霊的な世界が開かれてはっきりとわかるように変えられました。私の死んでいた霊魂が生き返ったのです。野の獣のように理性なく暴れまわっていた私が、新しい人に生まれ変わりました。イエスさまの聖霊を受けた者として、あたかもキリストの妻のように、キリストといつも共に生活して、キリストに仕える者へと変えられたのです。

 

そして今は礼拝者、主に奉仕する者、キリストの働きを成す者として、新しく生まれ変わることができたのです。今は心の中から憎しみや怒りや妬みや罪責感など消え去り、代わりに信仰と希望と愛と喜びが本当に満ち溢れ、以前と比べると、なにか動物の世界から人問の世界に目覚めて移り変わったような感覚です。それが聖霊のバプテスマの体験でした。誰であれ聖霊さまを受ければ古き人はキリストとに死んで、新しくキリストとによみがえる変身の希望があります。

 

 

 最後のアダムなるイエスと最初の人アダムとの大切な共通点がもう一つあります。始めのアダムはエデンの園で裸で生活していました。エデンの園とは、そこに四つの川が流れていて、大変湿潤で寒さも熱さもなく、今の空調設備や暖房や冷房も必要なく、人にやさしい快適な園でした。

ですからアダムは裸でも楽に生活していたのです。ところがアダムが罪を犯した後、彼は裸であることを恐れて、恥じる者へと変えられたのです。そこでアダムは自分で見つけたいちじくのきな葉を腰のおおいとしましたが、やがてつぎあてを繰り返しても、役に立たない枯れる一時的で不完全なガサガサ音をたてて朽ちていく衣となりました。

 

アダムがみじめにも穴だらけでぼろぼろになったいちじくの枯葉の繊維を押さえながらの恥に悩まされていたその時、慈悲深い神さまは一匹の動物を殺して血を流しその皮をはがして、人類最初の服としてアダムに与えられました。この朽ちない皮の衣だけが、アダムを裸の恥から堂々と恥じることないよう完全にガードできました。

 

これは人間の罪の恥は、人間自らの力による努力や良い行ない、優れた学問や宗教、倫理、道徳などでは絶対一時的にしか覆い隠せず、永久的に罪の恥を覆い隠せる完全な義の衣とは、ただ神さまから与えられる一方的恵みしかないことを教えています。人のために血を流して殺された罪なき動物とは、人の罪を完全におおう実力ある正義の衣、十字架で肉を裂かれた罪なきイエスさまを象微しています。

 

 こういう訳で聖書では「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ1314)と勧めていますが、最後のアダムであるイエスさまご自身も裸の恥に悩まされるアダムと同じような体験がありました。最初の人間アダムが裸であったように、イエスさまも最後のアダの使命があったため裸とされる時が来ました。

 

 それはカルバリ山の十字架の上です。イエスさまは最後の一枚の服である下着さえもくじ引きにされて取り去られ、完全に裸となって十字架に釘づけられたのです。イエスさまは完全な神さまであられると同時に、完全な人間としても来られたため、その人として性質上、群衆の見つめるなか裸にされた体験は、恥ずかしくて恥ずかしくて耐えられないものでした。十字架の周りにたくさんの群衆が男も女も取り巻いているのです。ユダヤ人だけでなくローマ人や世界中の人々が集まって来るのです。だからイエスさまは通常なら十字架の上で、恥ずかしくて顔も上げられない位です。

 

 

ところが、これほどまで凄惨な哀れみなき十字架刑の只中にさえ、慈悲深い神さまの英知に満ちた配慮がそこに準備されていました。これはこの奥義を悟る人にだけ示されるかくされた神さまの愛の配慮です。始めのアダムに皮の衣を与えられた神さまが最後のアダムなるイエスさまにも一つの裸の恥を覆う正義の衣をそっと着せられていたのです。その神秘的な正義の衣とは一体なんでしょうか?それが、イエスさまご自身、十字架上流された血潮の衣なのです。なんと主イエス・キリスト本人がご自身の血潮というかたちで主イエス・キリストを着たのです。

 

 イエスさまは執拗にムチ打たれ、頭にはするどいいばらの冠を受け、手足には釘が打たれたから、そから血潮が全身に止まることなく溢れ流れました。イエスさまの全身は真っ赤に染められてまだらな血潮の衣に包まれたのです。

 

 

 先、義理の母が誤って包丁で指をちょっと切ってしまいました。その時その出血した赤い傷□を私は心配してをとって見ました。すると切れた傷の赤い血を見た私はもう怖くなって震えてしまい、助けるどころか本当に力が全身から抜けてしいました。もちろん瞬的に傷□から目もそらしました。人間というのは動物的本能で赤い血を見たら、恐れて動きが止まってしまう性質があるものです。その理由で信号のとまれが赤なのかも知れませんが、人間は正常なら血を見たら瞬間的に力が抜けるものです。イエスさまは血潮を流されました。

 

そのためカルバリに集まった群衆はイエスの血潮にまみられた姿を、心理的におぞましく思って醜く忌み嫌う虫けらのように目をそむけたのです。見たくないのです。それが実は、父なる神さまからイエスさまに唯一与えられたどんなに見られても裸の恥とはならないおおわれた正義の衣・愛の配慮だったのです。

    

 

さらにイエスさまの私たちに対する熱く燃える全き愛もすべての恐れを閉め出し、裸の恥辱心を消滅させる完全な皮以上の衣の役を果たしていたのです。イエスさまは命を捨てるほどあなたを愛しています。その確かな証拠として流された十字架の血潮こそあなたに聖霊さまを注ぎ、キリストのふさわしい助け手とする恵みです。アダムの合同礼拝実現への熱い願望と感動は、今でもイエス様があなたに願っています。