旅人のそばめ

 

 

 士師二十章には驚くような現実の人間の罪悪の歴史が記録されています。始め私がこの聖書箇所を読んだときは正直気持ちが悪いと思いましが、よく祈ってから十字架の血潮を照らし合わせて霊的に解釈してみると、ここも大切な無視できない真理を啓示する神の言葉であることが分かりました。

 

 一人の老人がある晩、ベニヤミン族の住むギブアの町の広場で野宿しようとしている旅人を憐れみ、特別に自分の家に泊めてあげることにしました。その理由は町の広場には堕落した民が満ち、男色の風習さえある大変危険な所だったからです。老人は旅人を喜んで迎え入れ、ロバに馬草を与え、足を洗って、食べたり飲んだりしながらに楽しんでいました。

 

ところが夜もふけかけころ、突然、家じゅうを揺さぶるような破壊的なこぶしでドアを激しく叩き続ける音が鳴り響いてきました。「ダンダンダン」実にその町の男色の風習あるよこしまな男たちが情欲に満ちて、老人の家を取り囲んで叫んでいたのです。

 

 「あなたの家に来たあの男を引き出せ、あの男が知りたい!」

 

 執拗に迫り来る町の堕落した男たちに老人は必死に抵抗して叫びました。

「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ……」

 

しかし、老人の説得にも男たちが。一向に応じることなく、今や家のドアも力ずくで打ち破らんばかりになったため、老人は旅人を守るため残された最後の手段をとりました。旅人の身代わりにそばめをつかんで外の男たちの所へそのまま出したのです。情欲と汚れに満ちた男たちはいっせいにそのそばめに襲いかかり、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明ける頃やっと彼女を放したのです。

 

 翌朝、旅人が外に出ると、そばめが家の入り口に倒れたまま死んでいるのを確認しました。そこで旅人は家に入り、当時の風習によって刀を取りだし、驚くことにそばめの死体を十二の部分に切り分けて、それぞれの部分をイスラエルの部族ごとに一つずつ輸送したのです。小包を受け取った族長たちは開いてびっくり仰天です。

開いた□が閉まらない族長たちは事の重大さに目が覚めて、大至急イスラエル中の十一部族を召集して大会議場である「ミッパの主のところ」に集合しました。

 

イスラエルの全部族、民全体の頭たち、四十万の剣を使う戦士が神の民の集いに総動員されました。目的はただ一つ、男色の風習に身を委ね、全く悔い改めようとも恥ようともしない鉄面皮のようなギブアの町に住むベニヤミン族に対して、イスラエルの十一部族は、主の御心を求めて後、一致団結して立ち上がり、イスラエルから悪を除き去るための聖をついに開戦したのです。

 

今まで眠りについていた十一部族が始めて目覚めて自発的に立ち上がったのです。まさに罪悪と戦うリバイバルの始まりです。彼らは必死に主にすがり、断食礼拝で身を清め、戦土たちは剣をに手に聖戦を繰り広げ、最後に十一部族はこの戦争でイスラエルから堕落しきった一部族を聖絶して彼らの町ギブアを焼き払うこととなりました。

 

 

 人間の罪はこのように恐ろしい燃える火のようです。罪と汚れはことごとく聖絶して、焼き尽くすしかありません。しかしながら今の時代、いまだ多くの力ある神のイスラエルは、霊的に眠っている状態です。日々、展開されるべき聖戦である罪悪や肉欲との戦いに気づかないでのんびり妥協したまま参戦できないでいます。本当は目覚めたら凄く力ある勇士たちが、あまりにもたくさん寝ています。眠れる神の民を目覚めさせ、勇士とならせる唯一の切り札があります。

 

この国を目覚めさせ、教団教派を超越した教会の一致をもたらし、全クリスチャンを聖戦へと立ち上がらせるリバイバルの鍵がまだあります。もともと罪悪に対する戦いの認識が甘かったイスラエル十一部族でさえ本気で立ち上がらせる動機づけを与えた起爆剤とは一体なんだったでしょうか。

 

 それは堕落したギブアの町の罪悪とは一切関係なく、ただ犠牲となりただ身代わりとなり殺された無実なそばめ、その人でした。皮肉にも元気に生きている時のそばめではなく、死んだ後の悲惨なそばめです。そばめの死体をイスラエルの国中へ送りつけたそのことが引き金となって、十一部族の開眼となりリバイバルの原力となったのです。死体の一部を実際に受け取って、直接見た十一部族が始めて事の重大性を悟り、本気に目覚めてミツパの町、主の所に集まり罪悪に対する聖戦を開戦し勝利したのです。

 

 今、払たちもまた絶対受け取り、見つめなければならない姿がここにあります。それは十字架の上で手足を釘打たれ、血潮を流し、肉体をむちで裂かれた救い主イエスさまです。このお方を直視し、このお方を語らなければ、誰でもの深い睡眠状態から目覚めることはできません。罪なき神さまの御子が罪ある世界のために犠牲の死を遂げのです。こんな偉人な神さまの御子の血潮にまみれたその姿こそ私たちを霊の眠りから目覚めさせ、罪悪の本質を悟らせ、罪を憎み、罪を敵として聖戦を始める聖なる勇士へと変化させるのです。

 

 十字架のイエス、その血潮にまみれた姿を恐れないで真剣に見めましょう。開かれた小包を自ら手にとってしっかり見つめる族長たちのように、ふるえながら、感的な心をもってイエスの血潮と肉体を自分のものとして受け取ることです。

 

必ず目覚めて、奮い立つ新鮮な命の力が流れてきます。今まで隠れていた罪悪が浮き彫りにされ、これと戦い、聖絶する勇気と信仰と行動力が流れてきます。そしてイエスの血潮は、私たちを世界の罪悪を滅ぼす、大きな神の軍隊へと成長させるのです。イエスの十字架を直視しましょう。私たちの心と体が弱い時、世を歩んで疲れ倒れる時、神の愛が見えなくなった時、ただひとり十字架を見上げることです。

 

私たちの愛するお方の傷ついた血潮にまみれた御姿を。どんなに深く大いなる犠牲愛でしょうか。罪を敵として罪に妥協することなくをかけて戦いぬかれた勝利の主です。イエス十字架の血潮を見続ければ、力ある主の勇士と変えられてどんな罪の誘惑にも打ち勝てます。

 

イエスの血潮は私たちの清めで、積極的に聖戦にかりたたせる救いの力です。今の終末の時代こそ神さまの民は皆、教団、教派を越えてイエス十字架を仰いで立ち上がり「ミツパの主のところ」へ、神のスラエル軍として集合するべきその時です。一致団結して霊の戦いに奮い立つその時が今です。ミツパの町の名前の意味は「見張る場所」「物見やぐら」です。

 

主は今、罪悪との戦いに昼も夜も本当に目覚めた的に戦う教会や戦う個人の所におられます。共に十字架で血潮にまみれたイエスさまの御姿を私たちの唯一の誇りとして信仰の目でしっかり直視して聖なる感化を受けて信仰が大きく醒されましょう。

 

「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル124

 

 十字架で血潮を流すまでたちの罪と戦われイエスさまを模範として見つめて目覚め、勇士となって罪を敵視して憎み、強く雄々しく聖戦に立ち上がって御言葉の剣を高く振りかざしましょう。

ただイエスの血潮が正義の原力です。