切った枝

 

 旧約聖書(第二列王記66)エリシャの時代のこと。一人の人が材木を倒している時、誤って斧の頭をヨルダン川の水の中に落としてしまった事故があります。その時、預言者エリシャは、その落ちた場所へ一本の切った枝を投げ込むと、神さまの奇蹟でなんと斧の頭が水の上に浮かびました。そこでそれを直接拾い上げて無事回収することができました。

 

 私たちの心は絶えず流れるヨルダン川の流れのようです。そこには日々、喜怒哀楽があり、絶えず変化して川の流れのように動きます。しかし、決してそこに本来あってはならない斧の鋭い頭を沈めておいてはいけません。

 

ペテロの場合、イエスさまを裏切ったという失敗が心のヨルダン川の中、斧の鋭い頭となって沈んでいたのです。彼が忘れようとして漁に出て行き、そこで活発に活勤すればするほど、むしろ一緒になって激しく動く斧の頭が、もっと鋭い凶器となって内側から傷つけられ、ペテロの心の内側の傷□を増大する悪循環となっていたのです。本来あってはならない斧の頭、これを取り除く奇蹟を起こすにはただ一本の切った枝、すなわちイエスさまの十字架の木をその問題の起きた只中、ちょうどその場所めがけて投げ込まなければなりません。

 

心の傷を受けたその場所に、イエスの十字架の血潮を受けて祈る事です。その時、隠れ沈んでいた本来あってはならない斧の頭が心のヨルダン川に浮かぶ奇蹟が起きて発見し、これを速やかに取り除くことができるのです。イエスの血潮の力を信じて胸に手を置いて一人祈ってみてください。心のもっと病んでいる問題について祈ってみてください。きっと自分も忘れていたような末清算の罪や呪い、赦していない人などが心のヨルダン川にふっと浮かんできては再発見できるかもしれません。聖霊さまの力で奇蹟的に示されて浮かぶ斧の頭はただ告白して取り除くだけで後は楽になれます。

 

私たちの現在の人格形成とは一日によらず、年齢相応の年月の中で体験した数々の出来事が大木の年輪のように心に刻まれて、私たちも気付かない潜在意識の深いところから今日に大きな影響を与えているものです。八〇歳なら八〇年の大きく深い年輪、一〇歳なら一〇年の小さくかわいい年輪があり、そこに人や社会から受けた成功や失敗などがすべて良かれ悪しかれ記録の様に刻まれております。

 

 私の知り合いのある兄弟は心の年輪に憎しみという深い傷が刻まれていました。子供の頃からいつも父親に認められずに育てられ、「おまえはだめな奴だ。どうせ何をしても出来ない」という否定的な言葉を一方的に受け続けたため、次第に父親に対する反発と憎悪が心の中を支配していました。

 

ある日、兄弟が奥さんと家で祈り会をもっている時。人の罪と義と裁きを明確にする聖霊さまの臨在の中で心の奥底に隠されていた憎しみがはっきりと現われ出る体験がありました。普段は本当に穏やかで紳士的な兄弟が突然、苦しみのあまり、ゆかに転がって暴れだしました。奥さんの必死な執り成し祈りのなか、意識を失うほどの苦しみを受けながらも、兄弟は一つの幻を見ていました。

 

 なんと赦すことの出来ないほど、心底憎いあの父親が、はっきりと目の前に現われ、次の瞬間、幻に鋭い出刃包丁が現われました。兄弟は子どもの頃から果たせないでいた復讐心に燃え、自らを制御できずにこの包丁を手に取り、無我夢中で幻の父親に襲いかかりズタズタにしてしまったのです。

 

その後、幻からさめ、我に帰った兄弟が確認したものは、熱く執り成し祈り続ける奥さんの愛の姿と、自分が引き裂いた記憶もないズタズタの新聞紙と、手当たり次第に打ち壊された物でした。心の年輪に深く刻まれていた父親への憎悪。これを啓示された兄弟は信仰ですべてを赦し、自らの心の傷のいやしを祈りました。今、兄弟は過去をすべて証しできるほど完全にいやされて献身しています。

 

 人間は一~三歳までに精神発達が完成され、四歳では知能が九〇%形成され、六歳には一生涯暮らすための人格が形成されると言われ、七歳位までの重要な時期に、イエスの血潮による守りの祈りなく無防備であったならば、他の環境的要因から一生涯悪影響を及ぼすような心の傷を受けてしまうことがあります。

 

例えば、共産主義圈では生後から七歳位までの間、特に力を入れて一貫した無神論と理想国家理念の洗脳教育を徹底的に与え続けるため、彼らは成人後も、なかなかその誤った思想から離れなくなります。同様に私たちの場合もどのような悪影響を無抵抗の内に外部から受けているかわかりません。

 

私の場合、子供の時、身近な人から「イエス・キリストが十字架で死ぬとき、血潮が一滴もでなかったんですよ」と教え込まれた記憶が今でもあります。悪魔は将来、私が救われてこのようにイエスの血潮を書くことを事前に知っていたのでしょうか。いずれにせよ、私たちにはどんなに誤った教育や深い心の傷があっても、いやし主イエスが共におられます。イエス・キリストは昨日も今日も永久に変わらないお方であるため、昨日の二千年前、巡り歩いていやしをなされたイエスさまと同じく今日も継統していやしをなされます。日々の生活で心につく今の傷をいやされるイエスさまは過去についた古い心の傷もいやしてくださいます。

 

 またある兄弟は小学生時代、五年生の頃、愛するお父さんの突然の病死により生涯の大きな心の傷を受けてしまい、そのまま完全にいやされない状態で成人しました。通常は元気で明るく立派な青年なのですが、ある瞬間わけもないのに過去の記憶をたどると無性に寂しさと悲しさが心によぎり、落ち込んでしまうことが度々ありました。そんなある日のこと、イエスさまに出会い救われて神のアガペの愛を知るようになったため、彼は自分自身の心のいやしのために一生懸命祈ることを覚えました。

 

兄弟は過去についた心の傷が原因で現在心がむなしくなることを知り、このようにインナーヒーリングの祈りをしました。

「主よ、私が産まれてから一歳になるまでの間、一体何があったかは知りませんが、あなたはすべてご存知です。あなたを受け入れます。その頃、もし私が誰かから受けた心の傷がありましたら、今、いやしてください」

 

 このようにイエスの血潮の力によりすがって産まれてから一歳までの期間のいやしの祈りを数分間祈り、次に一歳から二歳までのいやしを同様に数分問と同じ祈りを次々と過去からさかのぼって現在に至るまで祈り始めました。その時、十歳から十一歳までの期問のいやしを祈り求める兄弟に突然大きな変化が見られました。心の奥底からものすごい深い痛みと悲しみの内に涙が次々と込み上げてきて、大声で激しく泣き始めたのです。

 

泣いて泣いて、その頃の自分にさかのぼって深い情景のなかを旅する旅人の様に、過去について祈り込むと、その後はしだいに平安な心に変えられていきました。後でこれら一切のインナーヒーリングの祈りが終わり、確認してみると最も涙のあふれた十歳、実にその時期こそ愛するお父さんとの死別により心に大きな傷を受けたその年だったのです。そしてこの祈りの後は、もう落ち込むこともほとんどなくなり、心の深い傷もいやされ、過去のことを思い出しても心が痛まなくなったというのです。心の傷がいやされた兄弟は今、同じような心の痛み持つ人々を上手に解放していやす力ある教会の牧師になりました。

 

 私自身もこのようなインナーヒーリングの祈りをしたことがあります。私の場合はそのような心のいやしの祈りの必要性を示されるような過去の再現体験があったからです。

というのは私がまだ小学校五年生だったころ、私の家に泥棒が入り私が第一発見者となりました。夕暮れの頃、カーテンを閉めないで電気をつけたまま茶の間にいると誰もいないはずの隣の座敷の部屋の障子ごしに突然懐中電灯の光が走り、私は一体誰がそこにいるのだろうかと不信に思いながら近づいて戸をバッと開けてみるとびっくり。座敷なのに長靴を履いたうちの家族ではない変なおじさんが懐中電灯片手に物色中でした。変なおじさんも私にびっくりして、そのまま何も盗まないで窓から飛び降りて逃げて行きました。私は変なおじさんだなあと思いながらが、それが泥棒であることを悟り、子供心に恐れがきました。それから時が過ぎ、すっかりすべてを忘れたはずの中学校二年生のときです。

 

 夕暮れの頃、私が以前のようにカーテンを閉めないで電気をつけたまま茶の間にいると誰もいないはずの隣の部屋に一筋のせん光が走りました。その瞬間、私の脳裏には完全に忘れていたはずの、あのいまわしい過去の記憶、変なおじさんがよぎり、恐ろしくなってそろりと家を抜け出し警察を呼びました。すみやかに警察官がパトカーでかっこよく到着し、座敷の戸をバッと開きました。しかし開けてびっくり。そこには泥棒が入った形跡も変なおじさんも全くなく、ただ私が変なおじさんとなってしまい赤面する私の目から火柱がボーッと出ました。結局、駐車する車のヘッドライトが乱反射したものを、私が早とちりしたものでしたが、過去に忘れたはずの事件がいやされない私の心の潜在意識の中で悪く働いた結果でした。

 

 このような体験を考えると、やはり過去の内なる人のいやしは絶対必要であると悟らされ、信仰を持ってから実践しました。私のインナーヒーリングの祈りは、まずは産まれてから一歳になるまでの期間について、数分間、胸に手を置いて祈りました。

 「主よ。この時期にもし私の受けた傷や罪があったら赦し聖め、イエスさまを私がまだ知らなかったこの頃の私を抱きしめ包んでください」

 

 こうして祈り始め、歳から二歳、二歳から三歳と各数分間ずつ祈り、やがて私が五~六歳であった頃のいやしの祈りをしていると、本当に私自身が一番驚きました。それまで何も考えなかったのに、突然イエスの血潮の力が私に臨み、私の口から六歳の子供のような声が出て、泣き叫びはじめたのです。

 

 「うわーん。お兄ちゃんにいじめられた!」

 

私は自分自身、非常に慌てふためいて驚きつつも、この時期の心のいやしを熱心に祈りました。それは傷ついていた私の内なる人の叫びが、知識の言葉の賜物により、言葉となって現われたものであって、悪霊の叫びではありませんでした。聖書には確かに本当の自分自身である内なる人があると言っています。あなたの隠された内なる人は健全で大丈夫でしょうか。

 

 ここで私が個人的に深い感動を覚えた個人的な証しを、もう一つさせていただきます。私の妻は母が牧師で、兄弟たちも牧師や長老であり、親戚も皆クリスチャンで、子供のころから早く救われ、とりなし祈る習慣をもって育った人でした。そんな妻がまだ小さかった頃、韓国でいつものように祈っていると、突然、六歳くらいの見たことのない子供が現われて泣きながら「助けに来てくれ!」と呼びかけている幻がはっきり見えました。しかし当時もその後の人生の中でも、その子供と出会うことはないまま成人しました。ちょうど使徒パウロが幻でひとりのマケドニヤ人が「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのを見たような種類の啓示でした。

 

 今、宣教師として来日した妻は確信してこう言います。「あの六歳の傷ついて泣いていた子供は、あなただったのね」

 

 神さまは時を越え、空間を超え、国境も飛び越えて事前に二人が出会って国際結婚する前からとりなし祈らせてすべてを準備されていたのです。感謝します。

 

 人間の心は例えると机の引き出しのようでもあります。そこに数々の人切なものをしまい込み、あるいは取り出して用いるように、人の心も過去に学んだ経験を通して蓄えた必要なものを現在生きるのに役立てて取り出します。しかしクリスチャンはこの机の引き出しの中に、もう一度手をつけて整理整頓する必要があります。古い思い出の引き出しを開けて、良いものは残し、悪いものを捨てることです。数々の引き出しの中でもまだ主に対して開かれていない鍵付きの閉ざされたままの闇の分野がないでしょうか。最も解放されていない分野、そこに過去の悲しみをそっと詰め込んだまま閉ざしていないでしょうか。主はこれを開いていやしの光を当てたいのです。御言葉は約束します。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む。」(詩篇1473

 

この内なる人をもいやし、精神的に解放と自由を与える力あるイエスの血潮を讃美します。

 聖書ではエレミヤに対して「わたしは、あなたを体内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者として定めていた」(エレミヤ15)と言われ、人間は母の体内にいる時から、すでに主の御計画と、聖別を受けられる人格者としての人間であることを認めています。

 

 ルカによる福音書一章四一節では、エリサベツがイエスさまを身ごもった母マリヤの挨拶を聞いた時、ヨハネはまだ生まれていなかったけれども、その声を聞いて母エリサベツの体内で喜び踊ったことが証言されています。ヨハネは生まれる前から型霊さまに満たされていたのです。ですから、実は私たちの内なる人のいやしは出産前の体内の赤ちゃんに至るまで、独立した人格者である人間として必要です。赤ちゃんも傷を受けることがあるからです。

 

 たとえば学者によると、妊娠した母親が何かの大きな恐れに捕らわれて、不安と緊張にさいなまれると、ストレスを受けた母親の脳にアドレナリンが分泌され、思考力を低下させ、体さえも老化させ、これを我慢し続けると最後にはガンを誘発します。そしてこれら一連の過程の中で母親のお腹の皮がはってしまい、体内にすむ赤ちゃんも狭くなった窮屈さの中で、微妙に母親と同じ圧迫と恐れを感じ取るそうです。さらに胎内の赤ちやんは八ヵ月を過ぎると、外部の音を認識して聞き分ける聴覚システムのニューロンをすでに大人と同じ数まで保有し、記憶をつかさどる脳内システムの海馬も正常に働き日々、記憶、学習しています。

 

そのため、最近では出産前に胎児の性別を判別出来ますが、これが両親の期待はずれであった場合、胎児の心に傷となることもあるそうです。両親が女の子を望んで期待していたのに、胎児が男の子と分かると両親は落胆します。両親は語ります。

 

 「ああ、残念だ。せっかく女の子の服をたくさん準備して、かわいい環境を整えていたのに……」

 

しかし、その時、注意しないといけません。胎内の子供は微妙に女の子に生まれなかったことに対する自分への拒絶感と劣等感、親に愛されていない、喜ばれていないという失望の思いを本能的に敏感に感じ取り、心の傷を持って生まれてくることがあるそうです。このような拒絶を受けた赤ちゃんの傷がいやされていないと将来、成人後にこれが現われて反社会的な拒絶反応を持った、周りとうまく打ち解けられない孤立した性格を持った人になることがあるそうです。

 

 ある聖会で悪霊に憑かれた二十代の女性が連れてこられました。女性は祈りを受けるなり、すぐに暴れてから床に倒れ込み、まるで胎内にいる胎児のように頭を垂れて体を丸め、手足を前に出して丸めたのです。説教者は命じました。

 

「イエスの御名によって命ずる。拒絶の霊よ、出て行け!」

 

その瞬間、女性から幼児期に受けた心の傷についていた悪霊は出て行き、自由になって立ち上がったのです。私たちは生涯のどこで傷を受けているか分かりませんが、誰でも例外なく全知全能の神の御前、時には徹底的に心のボーリングをして、心のいやしを祈り求める必要があります。