犠牲のためのたきぎ(イサクの神)

 

 

イサクは大変従順な人で、その従順さは実に全焼のいけにえの死に至るまで父親に従うほどでした。イサクはモリヤの山に、自分で自らの処刑道具となる全焼のいけにえのための重いたきぎを背負って、一歩た一歩と進み行きました。

 

ちょうど、イエスさまがカルバリの山までご自身が自らの処刑道具となる重い十字架のを背負って一歩また一歩と進み行かれたようにです。

 

イサクは祭壇上のきぎの上に縛られて置かれた時、自らの死を覚悟しまし。父アブラハムも大変従順な人として主の命令に従い、伸ばし、刀を取って愛するイサクをほふろうとしました。その時、主はアブラハムを呼ばれ、イサクに手を下すことを禁じ、そのひとり子さえしまずに神さまに捧げたアブラハムの従順な信仰を認めて祝福を宣言されました

 

 「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記221618

 

 祭壇のたきぎには、イサクの代わりに主が準備されたいけにえである角をやぶに引っかけていた頭の雄羊が捧げられました。ここで信仰の父アブラハムは愛するひとり子をしまないで捧げたことから、ひとり子イエスさまを惜しまないで捧げられた父なる神さまを象徴します。そしてイサクは一度死を覚悟し、従順に祭壇にあげられた人です。彼は、ここで一度捨てたはずの命を再び自分のものとして勝ち取ったのです。

 

まさにイエスさまの死の体験からの復活のようです。さらにここでイサクをほふって焼くために父アブラハムが準備していた火と刀(創世記226)にも象徴的な意昧がありました。火はイエスさまが十字架の祭壇上「私は渇く」と叫ばれた全焼のいけにえ体験に必要な聖霊さまの火であり、イサクを殺す道具である鉄製の刀は、イエスさまを殺す道具である鉄製のさびた釘象徴します。

 

またもう一ついけにえを捧げるときの必需品に、イサクが祭壇上のたきぎからずり落ちたりしないよう縛って固定するロープがありました。

 

「ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた」(創世記229

 

ここに奥義があります。イエスさまにも同様の縛って固定するロープが十字架というの上で巻かれていました。詩篇三四篇二〇節では約束の救い主の十字架について「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」と預言されており、その成就としてダヤ人ちが過ぎ越し祭の安息に、死体を十字架の上に残しておきたくなかったため早死にさせようと、十字架の両サイドにいた強盗人たちのすねの骨を折る処置をとりましたが、真中のイエスさまはすでに死んでおられたためすねの骨を折らずに下ろされました(ハネ1936)。

 

通常、十字架刑になるほどの重罪人は狂暴な性質を持ち、十字架の上でも暴れるため自らの力と体重で釘打たれた手のひらが裂けて外れてしまうのを防ぐため、手のひらではなく手首に釘が骨もろとも打ち込まれていました。ところがイエスさまの場合は十字架を直前にしながらも、暴れて抵抗する他の死刑囚たちとは全く異なり、ほふられる小羊のようにやさしく従順なご性質だったのをローマ兵はみこしてそうしたのか、首ではなく直接のひらに釘が打たれたのです。

 

その証拠に復活されたイエスさまの福音を疑うトマスは十字架の目撃者として「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私のをそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と告白し、八後に現われてくださったイエスさまご自身も「あなたの指をここにつけて、わたしのを見なさい。伸ばして、わしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ハネ202527)。と言われ、すでに釘打たれた傷跡を持つ場所が「手ではなくを見なさいと言われたのです。ですからのひらに釘を直接打たれたイエスさまの場合、指へ広がる五本に分かれた細い骨をもつのひらだったため釘が貫通した際にも骨と骨の間を釘打たれ、「その骨がひとつも砕かれない」という十字架の預言がここでもみごとにクリアできたのです。

 

そしてのひらに釘打たれたがために、イエスさまの体重の重みで手の肉が裂けてずり落ちないよう補強する処置として、イエスさまの両うでと平行する十字架の横の間には、ローマ兵によって、ロープがしっかりと縛り付けられていたのです。

このような理由からイサクをほふる時、祭壇上のたきぎのに縛って固定していたロープとはイエスさまにおいても同じ固定目的で使われて「イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた」という象徴的に意味のある預言が十字架上のイエスさまにおいても成就したのです。

 

 

ここで推測ですが、イエスさまの釘打たれた正確な位置とは何処でしょうか。足の書かれた絵をご覧下さい(図7参照)。黒い点の辺りに釘が打たれたと推測されます。足においては間違いないでしょうが、に関する限り候補としてA点、B点、C点が考えられます。

 

しかし、A点では確かに骨も砕かれず十字架にしっかり固定できますが、イエスさまが語られた御言葉「わたしのを見なさい」に矛盾する「首」であり削除。

 

B点では骨や動脈も傷つけられずに釘打ちができ、周りの骨に支えられてずり落ちず可能性が高いですが、ここならイエスさまの象徴イサクを通じて預言されていた固定用のロープが不要になってしまう問題点と、ローマ兵にとっても両手とも同じ骨のないこのわずかな位置を選んで正確に釘打ったと考えることが不自然なためあえて削除。そこで残された可能性として私たちのイメージ通りの手のひらの中央C点こそイエスさまの語られたわたしのを見なさいに一致するもふさわしい位置だったのではないでしょうか?

 

 この、祭壇死を決意し、ただ一度で砕かれて従順が完成されたイサクは、その後の生涯を死者の復活のように取り返し、イエスさま同様、復活の栄光がイサクをおおい、妻リベカに恵まれ、種をまくとその年に百倍もの収穫を見るという祝福を受け、ますます栄えて非常に裕福になりました

 

 さらにまた、モリヤの山で角をやぶという雑に引っかけたためわずかしか動けずに、捕らえられてイサクの身代わりとなって、祭壇上ほふられた罪なき雄羊もイエスさまを象徴しています。罪なきイエスさまはたち人間の身代わりに捕らえられて、十字架という荒削りの雑木に釘づけられ、わずかしか動けないまま神の小羊として血潮を流してほふられたからです。

 

その時、聖なるイエスの御頭には雄羊の頭を悩ませた取り巻きついて、どうしても離れないやぶのような価値のないわずらわしい植物、いばらの冠が押さえつけられていました。

 

しかし、雄羊の手足が真っ直ぐ地面に下りていて、ひざをかがめる位はできても、どうやっても自分の頭まではが届かず、かゆい頭を前足でかけないように十字架のイエスさまの場合もひざをかがめる位はできても、御が十字架のに釘打たれていたためご自身の御頭に取り巻くやぶのようなわずらわしい植物いばらを取り除くことはできなかったのです。