契約の箱に注がれた血6

 

では、十字架の真下、さく裂下約六メートル下方にまでも届くことのできる大量の出血とは一体どこから流れ出たのでしょうか。イエスさまの手足から流れ出た血潮だけで充分だったのでしょうか。

その解答がここにあったのです。イエスさまのわき腹から流れ出た血潮です。イエスさまがゲッセマネの園で血潮の汗を流して祈られた死の苦難から始まり、精神的に疲労困憊され、圧迫された心臓が、やがて十字架上で破裂し、その後、ローマ兵によりわき腹に槍を剌されて流れ出た、その時の流血があまりにも大量だったのです。

 

 人間の心臓は総延長九万六〇〇〇キロにもおよぶ全身の血管が一生の間つまらないように絶えず流し続ける強カポンプのような器官ですが、そのすべては意外に不釣合いなほど繊細で貧弱な交感神経と副交感神経によって支配されており、これらの神経が脳や全身からのメッセージを受けて心臓のぺースと強さをコントロールする司令塔となっています。

 

そのため、大脳で生み出された人の心とは、そのままこれらの神経を通って心臓に直接伝えられることから、心臓とは心を映し出す鏡とも言われます。そして人間の体内では最大の大動脈と最大の下大静脈のいずれもが心臓に集中しており、心臓の収縮によって肺動脈や大動脈へ送り出される血液量は一分間で安静時の成人で五~六リットルもあり、激しい緊張や運動時には心拍数も上がり二〇〇回に達すると毎分一六リットル以上にもなり、人間の体内血液のほとんどは脳と心臓に集中し、この血液の供給が何時間かストップするならば死のダメージをそのまま受けることにもなります。

 

通常、人の血液の量は体重の約一三分の一であり、仮に体重が八〇キロなら約六・一五リットルです。そのうち、イエスさまのように激しい心の痛みが直接原因して、粉々に割られた鏡のように神経を取り巻く心臓を破裂させた場合は、そこから流れ出る出血量は一からニリットルもの血が赤く見えるどろどろした赤血と水のように見える透明な血清とに、時間とともに分離してわき腹の辺りにある心臓下部の周りの膜の内側にたまるといいます。

 

「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き剌した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ1934

 

このわき腹から流れ出た血と水こそ、イエスさまの死因が十字架の釘打ちや暴力による外傷的ショックや出血多量あるいは呼吸困難によるものではなく、筋肉の中でも強力な心臓の壁が極度の精神的苦痛に耐えきれずに破裂したという人として最も過酷な死をとげたことを物語っています。そしてこの大量の血潮と極度の緊張状態で全身から心臓に集中していたすべてのイエスの血潮が死後、ローマ兵のするどく長い槍によってわき腹から突き上げてつらぬかれたため、大地震で真下の大地が裂けて現われた契約の箱のあがないのふたにまで注がれ出る大量な流れとなったのです。

    

 私はイエスさまのわき腹から流れ出た血潮が岩のきれつにそって六メートル真下まで充分届くほどの分量なのかこれを実験してみました。近所で径しい変なおじさんになるといけないから、人気のない夜中の三時ごろマンションの凹凸がある壁ずたいを選んでペットボトルで一リットルの水を壁に付けながら徐々に約六メートルある三階の高さから放水しました。すると水は広がりを見せながらも自然と落ちて行き、確かに1階の六メートル真下まで充分届く量であることがわずか一リットルでも確認できました。ましてやイエスさまの十字架上流され続けた大量の血潮は契約の箱まで注がれて、あまりある量だったと催信します。

 

 ここでイエスの血潮の大量の流れと、その御力を静かに考え、かつての預言者カタリナ・エンメリックの預言のとおり、契約の箱の真下にアダムの骨が本当に眠っていると考えて見ましょう。

すると熱い感動が心に走ります。

 

それは実に長い歴史を超越した偉大な神の摂理の中で、最後のアダムなるイエスの脇腹からだけでも一からニリットル、額と手足、背中をも加えるとそれ以上に大量に注がれたすべて血潮が、十字架の真下に眠る人類の祖、最初の罪人アダムにまでも充分注がれ落ちたかもしれないからです……。確かにイエスの聖なる血潮は、神学的にも実際的にも全人類の原罪の根源にまでさかのぼって、ことごとく根本から洗い清めた永遠の救いの力だったのです。ハレルヤ!

 

 神の摂理はあまりに偉大で、驚嘆するばかりです。そして契約の箱は製作の際、主の命令により大量に用いた純金製であったため(出エジプト251022、非常に強固であり二千六百年間、経っても朽ちることもなく、人の容易に入れない未知の洞窟内、ほぼ完全な状態のまま保存され、そこに注がれたイエスの血潮も、暗い洞窟内の適度な気温と湿度により、腐りはてることなく二千年間もちこたえて契約の箱にそのまま黒くはりついたままだったのです。

 

 契約の箱は輝く純金でおおわれています(出エジプト37章)。神さまがあえて契約の箱を沢山の純金でつくらせた本当の理由は、当時の神さまの偉大な栄光に加え、数千年先の後の時代になっても朽ち果てることなく、やがて注がれるはずのイエスさまの純金よりも尊い血潮をそのまま受けて保存して証しすることのできる唯一の朽ちない受け皿となるためだったのかもしれません。

 

 やがてDNA鑑定技術がさらに飛躍的向上した世の終わりの一番ふさわしいころ、多くの人々の預言するとおり契約の箱が再び出現し、今度こそ全世界の注目を浴びることになるでしょう。

 

ある人々の視点は値段がつけられないほど高価な遺物、その純金の物質的資産価値と巧みなケルビムの装飾による芸術性に目を見張ることでしょう。しかし、払たちクリスチャンが最も大きく目を見張るのは輝く黄金以上に尊く価値があり、巧みな純金製の最高傑作品を受け皿にしてもまだ足りない、そこに黒くはり付いているイエスさまの十字架の血潮の霊的資産価値に視線が釘づけとなるのです。

 

人間の血潮のDNAは、大変丈夫であり、冷凍や洞窟のような特定条件の下では永遠に保存でき、超高温や激しい毒性の科学物質や核放射熱に当たっても破壊されにくい非常に強固な構造をしているように、イエスの血潮は今日も迫害をものともせずに乗り越えて、力強く生きて働きかけ、私たちに十字架のあがないを語り続ける、永遠に変わらぬ確かな現実証拠です。

 

「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」

(第一ヨハネ58

 

 では今から先、一体いつ、どのようにして契約の箱とイエスの血潮は全世界に再び現わされるのでしょうか?れはあくまで推測です。もともと、ゴルゴダの丘自体も地表に現われていなかったものがエン・メリックの預言によると、ノアの大洪水後、全地から水を引くために起きた山が上がり谷が沈む地殻大変動の地震が起きた(詩篇10459

その時から人手によらず現われた丘であるといいます。

 

また、ノアの箱舟にしても、もともと地表に現われていなかったものが、一九四八年度のアララテ山脈一部の地震の際、埋もれていた地中から人手によらず現われたものです。箱船はある意昧で主との間、一つの船形の契約の箱とも言えますが、これが終末期の今、再び世界に地中から地震の力で現われたことは預言的な出来事かもしれません。

 

 ダニエル書二章四五節では、イエスの空中再臨を「人手によらず山から切り出された一つの石」と表現されていますが、主に関わる神聖な出来事は、いつも人手によらず神さまより直接現わされるのかもしれません。そう考えるとエゼキエル書三八章一九、二〇節では七年患難時代の幕開けロシアのイスラエル侵攻のその日、全世界の注目を浴びるイスラエルの地には山々がくつがえる程の大地震が起きると聖書預言されていますが、この大地震の力こそ現在埋もれたままの契約の箱を人手にはよらず、地表と全世界に現わす神さまの手段ではないでしょうか…?

 

 もし、この時タイミングよく契約の箱が公に出現すれば、第三神殿の建築は早急かつ確実なものとなるでしょう(エゼキエル四〇章)。あるいはこの時の大地震以外、可能性として七年患難時代末期に預言された最強の地震(黙示録1618)、他にイエスさまと私たち携挙されたクリスチャンが共に地上再臨し、オリーブ山が二つに裂けるその時の地震(ゼカリヤ1445)により契約の箱が世界に出現する可能性もあるでしょう。

 

 旧約時代、一年に一度のあがないの礼拝の日に、大祭司は午前九時から始まって明るい太陽の下で洗盤で自らを清めて、祭壇上のいけにえをほふり、その周りに血を注ぎました。ここまで少なくとも三時間はかかり、やがてこれが終わると次に残りの血を器の中に入れて手にし、さらに奥深い至聖所へと入っていきます。

 

「チャリン。チャリン。チャリン」

 

外の大庭では鈴の音が祈りながら大祭司を待つイスラエルの民の間にこだまします。聖所そして至聖所へ、そこは本来真っ暗な光のない場所であり、最も聖なる場として大祭司の務めはさらにここでも厳粛に三時間はかかりました。こうして、大祭司が契約の箱のあがないのふたに血を注ぎ終わり、一切のあがないを成し遂げるとあがないの使命が今年も無事に果たされたことを確信した大祭司は誤って殺されなかったことにもホッとして長いひもを引きずりながら再び民の待つ明るい大庭へ戻っていきます。

 

「チャリン。チャリン。チャリン」

 

イスラエルの会衆の前に無事戻れた大祭司はそこで大胆に宣言します。

 

「テテレスタイ(完了した)」

 

これにより民はいけにえの血が神さまに受け入れられ、罪赦されたことを確信し、あがないの礼拝が完了します。

 

ちょうどこれと同じことが十字架でも起きました。イエスさまはご自身が神の小羊として十字架の祭壇でほふられて、血潮を流されたお方であり、午前九時からの三時間は明るい太陽の下で十字架にかけられ、昼の十二時から息を引き取る午後三時まで最後の三時間は、驚くことに光なき至聖所の真っ暗闇のように、太陽が日食状態で光を失ない、全地が暗闇に包まれました。

 

「そのとき、すでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また神殿の幕は真二つに裂けた。」(ルカ234445

 

これは世界がイエスさまを捧げるための神聖なる至聖所と同じ環境になるため太陽は光を失ったのです。主の御前、全世界が暗い至聖所となったのです。そのため赤くなめした雄羊の皮や赤くなめしたジュゴンの皮などに完全に覆われた真っ暗な至聖所内(出エジプト2614)で契約の箱に血が注がれる時、超自然的に明るい神さまの栄光の臨在の雲が現われてそこに満ちたように、今は、雄羊やジュゴンの赤い皮のような赤いイエスの血潮をあがめて、その血潮に覆われた時その環境こそ神さまの至聖所となってその臨在、聖霊さまが全世界のどこでも下ることができる明るい新時代と変えられたのです。

 

このような目的で暗闇が世界を覆ったのでしたが、あがないの犠牲はあまりにも大きく全地はあたかも父なる神さまが御子なるイエスさまのお苦しみを見るのに絶えかねて、目をつぶられたかのようでした。すべての被造物は御子の死により、喪に服し、色を失ったかのようです。こうして全地は真っ暗な光なき至聖所となって全世界という至聖所の只中、世界の中心に立てられた十字架からあがないの務めが成し遂げられ、最後にイエスさまは叫ばれました。

 

「テテレスタイ(完了した)」

 

こうして息を引き取られるや否や、聖所と至聖所を仕切る七・五センチもある神殿の垂れ幕は人手による下から上ではなく、超自然的に上から下まで見事に引き裂かれたのです。それはちょうど、イエスさまの御体が人手によらず、天の父なる神の御心で引き裂かれたようにです。

 

そしてこのように息を引き取られたイエスさまのわき腹から流れ出た血潮と水はあがないの血潮と実にひとり子さえも与えるほど私たちを愛された父なる神の涙でもあったかのようでした。

 

 今は、すでにイエスの血潮が契約の箱に注がれ、父なる神に受け入れられた証拠の聖霊さまも暗い全世界に注がれた希望の時代です。暗い至聖所内で大祭司が聞いたイスラエルの民へのおごそかな御声のように、注がれたイエスの血潮に答え、まことの至聖所なる天国の父なる神さまの御座からも大きなみ声が全世界に響いております。

 

「大きな声が御座を出て、聖所の中から出てきて、『事は成就した。』と言った。すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。」(黙示録1617

 

十字架で肉体という垂れ幕を裂いて血潮を流し「テテレスタイ「完了した」と叫ばれたイエスさまの死と復活に答えて、今や天上では正義の裁きがこの乱れた世界に対して始まろうとしています。

「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」(黙示録1620

 

日本列島という「島」も例外ない七年患難の裁き、それに続く第一の死、第二の死という地獄の裁きが現実化します。しかし、聖書では全く同じイエスさまの注がれた血潮のゆえに、もう一つの別なメッセージも同じ父の御座から大きなみ声として全世界に響いております。

 

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録2134

 

 これは父なる神と和解し、神さまの子供となり、天国へ入る新しい生ける道、復活のイエスさまを信じる命の道です。ここに預言された来たるべき天国で父なる神ご自身が直接、彼らの目の涙をすっかりぬぐいとってくださるという「彼ら」の中には今この世で涙する私たちの将来だけでなく、実に将来のイエスさまご自身も入っているのです。イエスさまはかつて聖餐式を変わらない記念に定めて弟子たちの前で誓願されました。

 

「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マタイ262729

 

 御座におられる父なる神さまの叫ぶ大きな二つの御声、それは地獄の裁きか天国の祝福、二つに一つです。今は右に座す真の大祭司としてぶどう酒の喜びではなく、残された私たちの救いのために目から涙を流しながら本気でとりなし祈るイエスさまの切実なる願い、それはたった一つの思い、父なる神さまと同じ聖霊さまと同じ思いです。

 

それは、「地の果てのすべてのものよ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。他にはいない」(イザヤ4522)。

 

全世界がイエスさまの十字架を仰ぎ見て、その血潮によりて救われることです。和解の道、命の道、天国の道です。これを選択して右にも左にもそれないで主イエス・キリストの道だけを進むことです。

 

「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」

(黙示録156