アロンとフル

 

 イスラエル軍がアマレク軍と戦争をした時、勝利の鍵は献身的なモーセの両手を上げたとりなしの祈りにありました。モーセが両手を上げて祈る時イスラエルは優勢になり、やがて手が重くなり、下りる時にはアマレクが優勢になりました(出エジプト1711)。

 

そこでとりなし祈りの威力を知ったアロンとフルはモーセを石に座らせ左右から両手を支え、モーセは夕暮れまで両手を上げ続けることができ、そのとりなしの祈りの力で御使いの軍隊も加勢し、イスラエルはアマレクを制覇して勝利することができました。その時、モーセは感謝の祭壇を築いて言いました。アドナイ・ニシ「主の御座の上の手」「主は代々にわたってアマレクと戦われる」

(出エジプト1716)。

 

今日も聖徒が教会の組織の一員として主のしもべの両手を支え、御言葉と祈りに専念できるよう仕える時、それは主の戦いをしています。どうかあなたの教会の牧師の両手を支える大切な人となって豊かな天の報いを受けてください。モーセ同様、主のしもべだけでは長く両手を上げ続けられないものです。どうしても聖徒の皆様の尊い犠牲的支えの手が必要であり、主のしもべと聖徒が一つになって戦う時、初めて勝利できます。私たちの真の大祭司イエスが身代わりになって十字架につけられた時、そこから赦しととりなしの祈りがなされました。

 

「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」

 

その時、献身されたイエスさまの両手は高く上げられました。左右に立つアロンとフルがとりなすモーセの両手を下りないように支え続けていたように、イエスさまの両手も下りないように支え続けているものがありました。それは左右の御手にはずれないよう強く打たれたさびた釘です。

 

モーセが立ち上がった祈りからアロンとフルによって石に座る祈りに導かれた際、座ってひざをかがめたようにイエスさまの御足も十字架上、釘打たれたため体重がかかるのに、伸ばすこともできずに、結果としてモーセのようにひざをかがめていました。

 

聖書では自ら直接的には知らずしてイエスさまの釘打たれることを頂言した人がたくさんいます。イザヤはこのようなイエスさまの十字架上の釘打たれた死と復活をさして預言しました。

 

「わたしは彼を一つの釘として、確かな場所へ打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。」(イザヤ2223[十字架]

 

「その日、――万軍の主の御告げ。――確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。」(イザヤ2225[復活]

 

 エズラもまた直接的には知らずして預言しました。

「私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。」

(エズラ98

 

 第二列王記一章二節は、ラブ・シャケが直接的には知らずに言った言葉に

「今、おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を剌し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ」とありますが、イエスの御手にはこの世というエジプトと世の王なるサタンに拠り頼むすべての不信仰な人々の罪の身代わりに、エジプトの悪の勢力の代表であるいたんだ葦の杖が刺し通されました。そのいたんだ葦の杖こそ細長い葦のような傷んでさびた古釘です。

 

 第ニコリント十二章七節では、使徒パウロが病という一つのとげが肉体に与えられ、これが取り去られるように三度も主に願ったが、拒まれ、いただいた御言葉は、

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」でありました。

 

 イエスの時代一般的に使われたローマ式十字架刑とは、まず両手を一本ずつの釘で十字架の横棒の木に打ち込み、それから横の木の中央のほぞをすでに立てられている柱である縦の木のほぞ穴に上からはめこんで十字を完成した後、最後に残された両足を一つに束ねてその上に小さなあて木をのせて、そこに一本の釘を打ち込むというものでした。イエスさまは、使徒パウロを肉体的に悩ませたとげのような三本の釘というとげによって吊るされ肉体的に悩まされたのです。

 

 使徒パウロの体験は、取り去られないまま残された病のとげがむしろ、益となって神さまの力が弱さのうちに完全に現われる祝福とされたように、イエスさまも同様でした。恵みのとげなる三本の釘が打たれ続けたまま六時間、これが取り去られないがために傷□はふさがらず、むしろ御心どおりに、イエスの血潮が流れ続けることができ、その血潮のゆえにこそ、今日、完全な神さまの力が現われます。

 

イエスさまは目的を持って釘打たれました。イザヤの預言通り、父なる神の家なる教会の栄光の座となり、エズラの預言通り、私たちの目を明るくして肉の奴隷から自由にするためです。そして不信仰なエジプトのような肉的なこの世の人々の死のとげなる罪の身代わりとなって、そこから救うためでした。

 

真の大祭司イエスは聖戦の最後、実に死に至るまでも両手を上げ続け、血潮を流し続けながら十字架上祈られました。それゆえキリストの捧げられたとりなしの祈りこそ、今日、アマレクと戦う神のイスラエルなる私たちに圧倒的勝利をもたらす神の戦力です。

 

 アマレクとは容赦せず聖絶すべき生涯の敵であり(第ニサムエル153)、その意味は肉の象徴です。私たちの生涯の敵として、御霊に逆らう性質を持つ肉の欲望、肉の思い、肉の行ないとの戦い、これに勝利を与えようとしてイエスさまは十字架で血潮にまみれた両手を上げて、ひざをかがめて、とりなし祈られたのです。この十字架の祭壇こそ、本当の「神の家の栄光の座」(イザヤ2223であり、アドナイ・ニシ「主の御座の上の手」(出エジプト1716)そのものであり、私たちの生涯の敵、肉欲をおさめる神の力です。主は代々にわたって、今も私たちのアマレクなる、御霊に逆らう肉と戦われ、勝利を与えて下さいます。これは主の戦いです。

 

「彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」(イザヤ6310

 

肉に対する勝利の鍵こそイエスの血潮を拠り所に祈りこむこと。その時どんな迫害の中でも実に肉の最たる戦い、殉教の死にさえも耐え抜く圧倒的に強い信仰の献身力が注がれます。力あるイエスの血潮を誉めたたえつつ、肉と戦いゲッセマネ祈祷しましょう。その時、御使いの軍隊も私たちを加勢して祈りを肋けてくれます。切に祈りこむ時、肉が聖絶されて死に、聖霊さまで復活して勝利の旗がひるがえることになります。ハレルヤ。

 

タイのテレビCMにタイトル『体重45kgになりたい。』という少年家族のストーリーがあります帰宅した少年は体重計へ直行、この子はどうしても体重45キロになりたいようです。そのために毎日トレーニングしてはたくさん食べて寝る。手にしたメモ用紙にはこう書いています。1.健康でなければならない。2. 最低でも45kg体重がなければならない。3.一日6時間は眠ること。

やがて父からの電話を受けた少年は聞きます。

 

「パパ、ママはボクが45kgになるまで、待っていられるかな?」

 

実は彼ら両親は病院にいて、お母さんはベッドで輸血中。少年の体重目標45キロとは献血できる最低限の体重でした。タイで献血できる基準は16以上、男性45kg、女性40kg以上。少年はお母さんを救いたい一心で連日努力していたのです。最後にCMではタイA.P.Honda献血キャンペーンのテロップ文字が表示されます。『献血を一度すると、ひとつより多くの命を救うことができます。患者さんはあなたの助けを待っています。』命を分け与える献血、素晴らしい助け合い制度です。少年の母を想う愛は、体重増加による太めの容姿も気にしない強さと感動があります。イエスさまの十字架も私たちの霊的命を救うために、永遠命の血を与えるために、自ら犠牲的に体が厳しく打たれ、理解されず見下されてもかまわない、美しい戦いと勝利の御姿です。

 

 また、ある少年はさらに上を行く献身的な愛を実践しました。とある途上国のキリスト教ミッションスクールにて宣教師の呼びかけに生徒らは恐れて誰も応じようとはしません。

 

「誰か、お願いします。クラスの女の子の手術に至急、献血が必要です。誰か、協力して欲しい。」

 

やがて一人の少年が親友であるその子の癒しを願い、勇気をもって献血を志願して立ち上がりました。医務室では、注射針が少年の細い腕に刺され、採血が始まりましたが、少年は次第に涙ぐみ、耐えきれなくなったようにポツリ言いました。

 

「先生。あとどのくらいで僕は死ぬの?」

 

少年は献血を知らなかった。少年は献血を申し出たとき、すでに自分の死を決意していたのです。

小さいながら親友を想う大きな犠牲愛、神様の御前では、すでにすべての血なる命を与えたも同様の行動でした。

 

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

(ヨハネ15:13 

イエスさまは私たちに命の血潮を与えて救ってくださった真に勇気ある親友です。