くびき

 

 

 マタイによる福音書十一章二八〇節でもイエスさまは私たちを大切なパートナーとしてその必要性を教訓されました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

 むかし畑を耕すために農夫は親牛と子牛を平行して横に並ばせ、その首を一緒に長い製の棒で結んでくびきをかけました(図5参照)。それは二頭が同じ歩調で並んで歩きながら器具を引かせて畑を耕させるためであり、二頭の首が入ったくびきの横棒の中間地点にはさらに長い縦の木をクロスして結びつけ、その先端には土を掘り起こすための具がついての中に埋もれていました。ですからこれら二頭に結ばれたくびきを上空から見下ろすと確かにこれも十字架のの形のゆっくりとした行進だったのです。そのためイエスさまは同じ福音をこのようにも語られました。

 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ1624

 

 イエスさまのくびきは負いやすいものです。端から見ると、親牛と子牛は肩の並んだ同労者として、協力し合いながら、共に力を合わせて具を引いて耕しているように見受けられますが、本当はほとんどの耕すための重荷は、親牛の肩だけに負担がかかっており、子牛は実のところただ並んで歩いているだけで、訓練のためにその耕すという雰囲気と慣れないくびき体験を味わっているだけに過ぎないものなのです。

 

 イエスさまが親牛で私たちが子牛です。イエスさまと共に歩むことはいかに楽しく心強い体験でしょうか。振り返るとき今まで耕してきたすべての輝かしい功績があたかも自分自身の力で引っ張って成し遂げられたかのような錯覚を覚えるほどです。

 

しかし、二頭に結ばれたくびきのバランスを取りながら同じ歩調でゆっくり歩む親牛にとって子牛の存在もまた大切です。それは子牛にとって親牛の歩みより幅に遅れて歩んで十字架の形を斜めにゆがめないよう、親牛の妨げにならない速度でバランスをとって肩を並べて歩むという大変崇高で重要な使命があるからです。

 

ですからイエスさまは、世界という神の畑を耕す福音事業をなすうえで、私たちの存在がとてもとても大切であり立派な同労者として認めてくださるのです。

 

イエスさまはあなの助けが必要です。ただ一緒に歩むだけでいいのです。しかしながら、もしあなたの同労がなかったならば十字架の福音は次第にその美しい形がゆがんでしまうのです。