呪いをもたらす苦い水

 

 民数記五章では律法で不貞を疑われた妻に対する定めがありました。祭司は容疑がかけられた女を近寄らせ、の前に立たせて聖い水を土の器に取り、幕屋の床にある塵をその水に入れます。

そしてこれを「呪いをもたらすい水」と呼び、誓って女に飲ませました

 

その時もし、女が夫の元にありながら隠れて姦淫の罪を犯していたのであれば、女はこれを飲んだ後、害を受け、水は女の中で苦く腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせ、みにくい体型となり、その女は民の問で呪いとなったのです。しかし、もし女が身を汚しておらず清ければ、水を飲んでも害を受けずに、むしろ女は子供を宿すようになったのです。イスラエルでは子を宿すとは祝福の象徴です。

 

実にイエスさまはこの呪いをもたらす苦い水を飲まれたお方なのです。

ゲッセマネの園でイエスさまは十字架に向けて必死に祈られました。

「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ1436

 

イエスさまは祈りこんで勝利され、この杯を私たちの身代わりに飲むことを決心されたのです。

それは全人類の過去・現在・末来のすべての罪と病と死の毒が満ちていた「十字架の死」という呪いをもたらす苦い水の杯だったのです。イエスさまは父なる神さまの御心に服従して、これを耐えて飲み干されました。罪なきイエスさまが罪ある人類を代表して、身代わり飲み干されたのです

 

そのため、その水はイエスさまの中で苦くなり、苦しみとなり、毒となって彼は十字架上、ユダヤ人の間で公然と死にゆく呪われた者になったのです。その死のさまはちょうど罪を犯して呪われた女のように、みにくく裁かれた姿としてはっきり現われのです。

 

十字架に手足をつるされ重みにより骨の外れるような痛みとともに全体重が腹やももにかかり、これを圧迫し、最後はうなだれて死に絶え後、御体のわき腹に鋭い槍が一突きです。そのため御体は腫れ上がり、腹はふくれ、ももはやせ衰えるみにくいものとなったのです。このようにして、イエスさまは十字架の木で血潮を流して、私たちの呪いを身代わりに受け、民の間で呪いそのものとなって裁かれたのです。

 

その時、イエスの御前には二つの杯の選択余地がありました。一つは呪いをもたらす苦い水の杯であり、もう一つの杯はこれです。

「彼らはイエスに、苦みを混ぜた葡萄酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで飲もうとはされなかった。」(マタイ2734

 

 もしも、イエスさまが苦みを混ぜた葡萄酒というもう一つの杯を飲まれたならば、これは麻酔薬であり、十字架の苦痛を和らげることもできたのですが、イエスの固い決心はこれを拒み、一時的な現実逃避もせずに、むしろ私たちの呪いを選んで、その苦しみすべてを飲み干されたのです。そのため私たちは今、完全に呪いから解放され、祝福されているのです。

 

呪いとは中命記二八章のリストでは霊的なもの、環境による精神的なもの、肉体的なものの三つに分けられますが、これはあくまで一つの法則のようなものであり、呪い自体を恐れる必要はありません。イエスさまが体を張って呪いと戦い、復活により勝利されたのですから、イエスさまという道を犠牲に踏み台として上よりの祝福に入れるのです。ただ事ごとに感謝して祝福の豊かさの中に入りましょう。

 

 今もし、ゴム風船を膨らませてを閉じ、を離すと万有引力に引かれ、下へ落ちます。自然の法則です。しかしこれに、ヘリウムガスや水素等を入れると反対に空中に浮きます。一つの法則には必ずそれに対抗する反作用があります。ちょうど罪と死の原理に対抗して戦う反作用がいのちの御霊の原理であり、このようなものです。われたいばらの生け垣のような人生の後、死んで黄泉に落ちるべく肉の人が、聖霊さまを受け新しい霊となり、豊かな実りある幸福な人生を過ごし、最後は祝福された御国、天国へ昇るのです。その原動力がイエスの血潮なのです。