血に染む長服

 

 ある時、私は風呂場でこれを実験しました。同量のお湯の入ったペットボトルを左右の手に一本ずつ持ち上げ、逆さにして手首のあたりから前向きに両手を高くあげて静かに注いでみました。

 

すると、お湯は両手首から流れ落ち、腕を伝って首より下、胸元で合流して、体の前面中心に濡らしながら、足下へ落ちていきました。実際に行なってみてそこで悟りが来ました。

 

十字架上、イエスさまの背中から下は、むちで血潮にまみれ、側面のわきから下は長いむちの先端とローマ兵の槍で血潮にまみれ、前面は、おおよそこの両手から伝って流れ落ちた御手の釘打ちによる血潮で覆われたということを、すなわちイエスの御体は前も横も後ろも全身血潮にまみれて特に前面を覆う流れ、ちょうどそれは長そでの付いた赤い長服のように、手元から始まり体の全面を覆い隠しました。続いて悟りが来ました。

 

 「ああ、そういえば創世記三七章三節で、父ヤコブは一番愛する実の子ヨセフにだけ、長そで付きの長服を作って与えていたのだ。ヨセフもイエスさまのひな型だ」

 

 イエスの血潮にまみれた全身を覆う長そで付きの赤い長服、これは確かに父ヤコブが最愛の子ヨセフにだけ長そで付きの長服を特別に作り与えたように、父なる神が最も愛されたお方はイエスさまであるという血潮の伴った生きた証しでありました。

 

ヨセフの生涯の中にもイエスのひな型がはっきり見られます。父ヤコブに一番愛されたヨセフは一七歳の時、兄弟たちからねたまれたあげく穴に落とされイシュマエル人へ銀貨二十枚で奴隷として売り飛ばされた人です。その時、兄弟たちは、この様な罪悪を隠すためにヨセフの長服を取り、雄山羊をほふって、その血に長服を浸してこれを証拠に父ヤコブの所へ持って行き、野の獣にかみ殺されたかのように工作し、父ヤコブをだまし、彼らの中で生きたヨセフを死人のように葬り去ったのでした。

 

事実その後の一三年間、祖国を離れ、すべてを失ったヨセフにとってエジプトの体験はまさに、死の連続でした。しかし、主が試練の只中、ヨセフと共におられたため、彼は幸運な人として栄え、数々の絶望的な死の体験を通りながらも耐え忍び、後には三〇歳にして当時の世界最大の先進国エジプト全体を治める国務総理大臣にまで高められ、名声を博したのです。

 

 それから九年後、世界的大飢饉の年月にエジプトの穀物を買い付けに来たのが、かつてヨセフを迫害し売り飛ばした兄弟たちでした。彼らに対してヨセフはすでに充分、復讐する権威も能力もありましたが、むしろ赦しを宣言し、国賓として一族を招き入れ、エジプトの最良の地と最良の物を与えて祝福し、一族を救いました。その心は数々の試練を通して磨き上げられた、まさにイエスさまの偉大な愛と赦しの心を体得したものです。

 

父なる神に愛された御子イエスは同胞の同国人にねたまれ、弟子のユダにも、裏切られ、銀貨三十枚で、奴隷の値を付けて、祭司長に売り飛ばされ、十字架へ釘打たれた救い主です。もし、イエスさまがその時祈り求めれば、天国の力ある十二軍団よりも多くの御使いたちを呼び求めて迫害者を根こそぎ滅ぼす権威も能力も充分ありましたが、イエスさまはあがないの犠牲を覚悟し、自分を殺す者のためにとりなし祈られました。

 

「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ2334

 

かつてヨセフの場合、兄弟たちは長服に雄山羊の血を浸して、これを証拠に父ヤコブをだまし、息子ヨセフの死を思わせていましたが、イエスさまの両手から流れ出る血潮は父なる神の御前、血に染む赤い長服として、ひとり子の本当の死を告げる現実の証拠でありました。さらに「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った」(詩篇10518)。エジプトでヨセフの自由を奪い、獄中にその足をとどめたものとは鉄のかせでした。

 

 イエスさまを十字架にとどめ、自由を奪い、その御足を悩ませたもの、それは足に打ち込まれた鉄の釘です。そして、一度殺されたはずのヨセフがエジプトにおける繁栄により公に生き返ったように、イエスさまは三目目に本当の死のさまより、よみがえり、復活の主として天国の王位を確立され、十字架を通して今も、私たちの赦しを宣言し、神さまの家族として最良の土地である豊かな天国を相続させようと国賓的待遇で御手を広げて招いておられる愛と赦しに富む現実の救い主です。

 

 ヨセフが数々の試練を耐え抜き、最終的に栄えに満ちる一族の救いとなれた事は、もう一つの秘密があります。一七歳の時、主から受けた夢です。彼の家族が自分を伏し拝み、一番出世するという夢と幻の力が試練のヨセフを常時支え続け、やがてはそれを成就したのです。私たちも現在、何を心に見据えるかが未来を決定し、心のビジョンは大変重要です。

 

今、心に描く夢と幻に聖霊さまが臨まれ、未来への影響・感化を与えます。人は夢があればいかにつらい試練の環境にも耐え抜くことができ、夢が生き抜く原動力になります。夢さえあればどんなに年をとっていてもその人はまだ若いです。夢のない人はたとえ若者であっても、すでに年寄りです。聖書を読んで肯定的な夢を心に描き、聖霊さまの働きを解き放ちましょう。

 

ヨセフはエジプトのつらい日々にも神さまよりの夢、「やがて自分は兄弟たちと和解し、彼らは私を伏し拝む、繁栄と出世のときは来る」このことをかたく信じていました。ヨセフはイエスさまのひな形です。

 

そのためイエスさまの内にも十字架の苦しみを耐え忍ぶ大きな原動力、夢がありました。イエスさまが迫害された公生涯、特に痛切なる十字架上で信じて見続けていた夢と幻とは、今は背いて釘打ち続けるが、やがては悟って立ち返る。まだ見ぬ神さまの家族・私たちクリスチャンのイエスさまを伏し拝む救いと礼拝の姿です。

 

イエスさまが十字架上「父よ。彼らをお赦し下さい」ととりなし祈られたその時、自らを釘打ち、殺すローマ兵と当時の群衆だけでなく、二千年後に生まれてくる私たち一人一人の顔も御心の内にはあったのです。その夢と幻は私たちの救われた、霊と真による心からの礼拝の姿です。ちょうど救いを受けたヨセフの家族が最終的に一切を見極め悟った上で、へりくだり、悔い改め、感謝の念に満ちて心から頭を下げたように、強制的ではない自発的な心からわき上がる感謝と救いの喜び、このゆえに現わされる礼拝。形式や習慣からではない、神さまへの愛の告白である礼拝。これを主は願われています。

 

私たちにはイエスさまの身代わりにより、いただいた赦しと救いのゆえに感謝があります。流されたイエスの血潮のゆえに父なる神さまへの愛があります。このことが他の偶像宗教とは異なるキリスト教の神髄なのです。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ410

 

もし、ヨセフの兄弟たちが過去の罪悪を赦してくれたヨセフに対して、いつまでも後ろめたく悔いてばかりいたならば、既にすべてを赦したヨセフにとって喜びとはならなかったでしょう。

 

私たちの場合でも一度悔い改めた後は、過去を忘れて新しい霊と新しい心で喜びと感謝の内にイエスさまを礼拝することです。イエスさまは私たちの罪赦された清い姿・自由な神の子供として健康で豊かに聖霊さまに満たされた姿・勝利に満ちて天国へ入場する姿・これを夢見て十字架を耐え忍ばれたからです。

 

どんなに偉大な愛と忍耐ある救いの創始者であり、完成者でしょうか。

イエスの血潮により天国の相続者として国賓的待遇で招かれている幸いに答え、心からの感謝礼拝を捧げましょう。イエス・キリストこそ唯一栄光と讃美を受けるにふさわしい血潮に染む長服にそでを通した勇気ある救い主だからです。