殉教者たちの血の叫び

 

「もし、その日数が少なくされなかったら、人として救われる者はいないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」(マタイ2422

 

 少なくされた日数、七年間のゆえに患難時代にも希望はあります。前三年半リバイバルが起きたイスラエルから、十四万四千人の選ばれた者、本当の十二部族が立ち上がるからです(黙示録74、ローマ1125。これぞイスラエル史上初めから主が一番願い(ローマ112)、約束しておられた(創世記177後の子孫、キリストから生まれでた真のイスラエルの完成です。

 

彼らこそ、天の御国の本当の弟子(ヨハネ831)として、学者(イザヤ454)であり、聖書という倉から新しいものである新約の恵みも、古いものである旧約の律法でも自由に取り出す一家の主人のような(マタイ1352)力ある証人です。最後のリバイバルの爆薬庫、神さまの国の軍隊です。

 

彼らはバアルにひざまずかない七千人のような堅い信仰で宣教し、リバイバルを起こしますが、やがて殉教します。しかしその時、流された殉教者たちの血は叫び、継続的リバイバルを呼びます(黙示録610、イザヤ2621)。そのためこれに答えて、彼らの代わりに患難時代後半の三年半には終末に働く使命が残されていたため、生きたまま天国へ移されたエリヤとエノクがもう一度、この世に来て宣教目的と人間である以上一度死ぬ目的を果たすでしょう(黙示録11313、ゼカリヤ414)。

 

エリヤとエノクは、サタンからの偽りの説教者反キリストと、彼を肋け、サタンの力で奇蹟を行う偽預言者(黙示録1313)に対抗する、全地の主のそばに立つ聖霊の油注がれた人たちです。

 

エリヤは、おもに御言葉に伴うしるしとしての奇蹟を行ない(黙示録116)、

エノクはおもに説教を行ない、空中におられるイエスさまのオリーブ山、地上再臨を直前にこう預言するでしょう。

 

 「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行ないのいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためにである。」(ユダ1415

 

 しかし、三年半の時が満ちると宇宙万物を保つ神さまの御言葉(ヘブル13)の変えることのできない定めに従い、エノク(ヘブル115)とエリヤ(第二列王記211)は人間である以上どうしても一度死ぬ必要が生じます。

 

 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル927

 このため、人類史上まだ一度も死を見ることなく生きたまま天に移された二人の人間エリヤとエノクは反キリストと戦い、殉教します(黙示録117)。

 

 ここでなぜ彼ら二人がエリヤとエノクであるかについて話します。彼ら二人はエリヤとモーセ

であるという聖書学者もおりますが、聖書には申命記三〇四章五節で、モーセは一二〇歳の時、モアブの地で死んだ。とはっきり記されています。もし、終末に再びモーセが来るならば、黙示録十一章七節に書かれてあるとおり、彼ら二人は終末に殉教するため、モーセは人として二回も死ぬことになってしまいます。しかし、人間の肉の死は一度限りです。では、一体なぜモーセの死後、その体についての論争が霊の世界にあったのでしょうか。

 

「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように。』と言いました。」(ユダ9

 

 サタンがモーセの体を欲しがって、ミカエルに引き渡そうとせず、妨げたのには理由があります。モーセの死後、後の時代に必ずイエスさまが世に来られ、高い山でペテロとヤコブとヨハネの目の前で御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなって神さまの栄光が主を覆う時、モーセが再び現われるからです。聖書にはその日について律法の代表モーセと預言者の代表エリヤが現われて、イエスさまと十字架のあがないの死について話し合われたとあります(ルカ931)。

 

 このような十字架にかかわる話し合いという重大な神さまの御計画が律法の代表者モーセにはあったため、事前に妨げようと肉的で愚かなサタンがモーセの死体を手放さないように、こだわっていたのです。しかし神さまの御計画はすべて成就します。エリヤとモーセはその日無事に世に来て使命を果たし、天に帰りました(マタイ178)。

 

 今から先も必ず、サタンの妨げを打ち破って終末の後半三年半の大患難時代になればエリヤとエノクが再び世に来て使命を果たします(マラキ456)。彼らの使命はイエス・キリストを宣べ伝えることと、人間として一度死ぬことです。

 

 イエスさまはかつてペテロにどのようにして殉教して、神さまの栄光を現わすかを預言されましたが(ヨハネ2119)、殉教とは神の栄光です。

 

エリヤとエノクの場合、その栄光のさまは、二人がエルサレムで殺された後、人々が死体を眺め続け日半の後には、神さまから出た命の息が彼らに入り、復活、昇天すると預言されています。その時、一粒の麦が殉教で死ぬと、その後の復活は大きく大地震を起こし、患難時代に残された人々さえも天の神さまをあがめる栄光が現われます。

 

「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。」(黙示録111113

 

 ここで終末の二人がエリヤとモーセではなく、エリヤとエノクであることを明らかにしたうえで最も話すべきことが話せます。それはエリヤとエノクの殉教の死、それ自体も神さまの栄光、イエスさまの十字架のひな形なのです。

 

今から先、エリヤとエノクが天国から宣教目的と、人として一度死ぬ目的を果たすために世界に来ますが、普通は死ぬこと自体を目的に世に来る人は誰もいません。むしろ幸福に生きるために人は世に産まれます。しかし、他に人類史上たったお一人だけ死ぬことを目的に使命として世に産まれた人が実存されたのです。イエス・キリストです。キリストは栄光の天国の御座をすべて捨てられて、自ら卑しいしもべの人間の姿をとってこの世に宣教目的と十字架の死、それ自体を目的に来られた特別なお方です。

 

「人の子(イエス)が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

(マタイ20:28

 

聖書は終末にエリヤとエノクがエルサレムにて殉教した後、人々はその死体を眺める事を預言します。

 

「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。」

(黙示録1189

 

イエスさまがエルサレム郊外ゴルゴダの十字架上、はりつけになった現場は、ローマ帝国の権力見せしめ目的に都に近い非常に目立つ道路わきで、多くの人々が行き交いながら血潮にまみられたイエスさまをじっと眺めていました(ヨハネ1920、詩篇2217)。

 

こうして死にて葬られたイエスさまの三日目の復活とその後の昇天は、弟子たちの集うマルコの家全体を揺り働かす大地震を起こして(使徒22)、聖霊さまを下らせ、今は世界中が神さまをあがめる大きな栄光のリバイバルを現わしています。