栄光の体

 

第六にイエス・キリストの血潮は私たちを輝かせて栄光の体を与えます。

 

ひげ

 

人間は誰でも献身力が与えられ、生きがいがはっきりすると生き生き栄光に輝き始めます。

「打つ者に私の背中を任せ、ひげを抜く者に私の頬を任せ侮辱されても、つばきをかけられても私の顔を隠さなかった。」(イザヤ506

 

十字架を前にしてイエスさまは背中のむち打ちだけでなく、ひげさえも抜かれました。ユダヤ社会では通常ひげとは男性美の象徴であり、男性の威厳と尊厳の現われです(詩篇1332)。

 

エジプト人には、ヨセフがパロ王に会うためにひげを剃って整えたように嫌われるものですが、ユダヤ人では反対に男性の誇りです。イスラエルの栄光のあらわれである祭司はひげの両端をそり落としてはいけないと律法で定められています(レビ215

 

かつて、アモン人の王ハヌンがダビデ王の家来たちを捕らえ、彼らのひげを半分そり落としてそしりを与えた時、ダビデ王は「彼らのひげが伸びるまでエリコに留まりそれから帰りなさい」と命令を送り、イスラエル社会でひげのない恥をこうむらないよう彼らを保護しました(第ニサムエル104)。

 

これほど社会的にも大切なひげです。それゆえイエスさまの御顔からひげが抜かれたということは、イエスさまのユダヤ人としての尊厳も栄光も踏みにじられたということを意昧する大変な出来事です。ひげが抜かれる激痛と共に、そこから外出血の血潮がにじみ出たことでしょう。

 

さらにまた、恥辱ばかりでなく、そこには暴力もありました。

「そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、『言い当ててみろ』などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。」

(マルコ1465

 

 私は救われる以前、大変な暴れ者でいろんな所へ出ていっては喧嘩をしていました。確かに「剣を取る者は剣により滅びる」ことを身をもって学ばされました。そんな惨めに砕かれた体験から、今分かることは、人は力強く殴りつけられると、その時つぶった目の中でピカッと火花が本当に飛び散るということです。また、頬を強く打たれると□の中が歯の形にそって切れ、血が出るということです。私は喧嘩して疲れ果て、ぼろぼろになって帰宅後、鏡の中で頬の内側が切れて内出血しているのをしばし確認したことがあります。こんな惨めな体験さえ、今、愛する主の御手の中で、主の御苦しみを万分の一でも理解するための悟りとなり、すべてが益になることを感謝します。

 

「私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。」(イザヤ507

 

 イザヤ書五〇章七節に出てくる火打石とは、両手に持つ火打石同士を互いにぶつけ合い、火花を散らし火種に火をつける石です。確かに、その時、石はピカッと光ります。しかし強く互い石をにぶつけ合わねば火花は飛び散りません。ガツン、ガツンと打つのです。イエスさまの御顔が打たれた時、サタンはこの時とばかりに、人間を通して憎しみと怒りのこもる強い拳でガツンと股りつけたのです。そのためイエスさまが目隠しされた暗黒の恐怖の内に見たものとは、実にただただ火打石のごとく火花が飛び散る、すさまじい光景そのものだったのです。強い拳により打ち砕かれたイエスさまの御目の内側は当然、頬が切れて内出血という血潮が流されたことでしょう。

 

その後、打撲傷によりイエスさまの御顔は時間と共に醜く腫れ上がり、多くの者が見て驚いたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていました。群衆の見る中、ゴルゴダヘの道、ほふり場に引かれていく屠殺される運命の小羊のように引き出されたイエスさまに、ローマ兵は死刑囚の定めにより十字架の非常に大きく重い横棒の木(パティブルムと呼ばれた)を縛り付けて背負わせ歩かせたのです(ヨハネ1917)。

 

 カルバリの発掘現場から発見された十字架の縦の長い木(スティペスと呼ばれた)を差し込む穴の縦横のサイズが三一・五センチ×三五センチだったことから考えると、固定のために隙間に打ち込む小さな岩のくいの部分を除いたとしても十字架の縦の木の太さは少なくとも三〇センチ×三○センチ四方はあったかなり大きな丸太位であろうと推測でき、この縦の木に合わせてクロスする十字架の横棒の木も同じ位の太さはあった木として非常に大きく重い大木の角材であったことが推測されます。

 

 当時の歴史宗ヨセフスによると一世紀頃には、エルサレムで最盛期で毎日五〇〇人以上のユダヤ人を十字架にかけるようティトス皇帝が命じたとあり、その結果、ローマ兵たちは多過ぎる十字架刑に使用する木を樹木の少ないイスラエルで調達するため手近で一番広く分布する樹木である樫の木から十字架を作り作業を簡略化したと言います。樫の木は固くて重い木です。

 

 そのため、十字架の横棒の木は少なくとも約五〇~六〇キロはあったと計算でき、想像以上に大きく重かった十字架の横棒の木を無埋に背負わされ、しかも徹夜と強制断食、五回の不法裁判と尋問責め、そして激しいむち打ちと暴力のため、心底力尽きていたイエスさまは重い十字架の木に押しつぶされ、両腕を固定されたまま上っていくつらい坂道ドロローサで、何度も倒されてはひざと御顔を地面に強打したことでしょう。

 

カルバリヘ続く旧道ドロローサはまちまちの大きさの岩で作られた転びやすいでこぼこ道です。イエスさまの御顔はここでも大怪我して損なわれたはずです。

 

 「おきてにしたがって悪をたくらむ破滅の法廷が、あなたを仲間に加えるでしょうか。彼らは、正しい者の命を求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。」

(詩篇942021

 

 こうしてカルバリの丘、十字架は高く上げられました。御言葉はすべて成就します。

「人が顔を背けるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ533

 

イエスさまの損なわれた御顔を道すがら集まった見ず知らずの大群衆さえ、忌み嫌い、顔を背き、頭をふりながらあざけりました。まるで見つけられた強盗人を非難するようにです(エレミヤ4827

 

 それはイエスの御顔がひげの抜かれた外出血と殴りつけられた内出血、さらにはゴルゴダ途上ドロローサの道でひどく損なわれていたからです。

しかし、この時の、この血潮こそ、今を生きる私たちのために注がれた貴い身代わりの犠牲の血潮でした。無駄な流血ではなかったのです。

 

すなわち、今日、誰でもイエスさまを仰ぎ見つめれば、復活の栄光に輝く顔を持てます。陰りのない明るい顔を持って生きます。悩みと憂いの暗い顔が信仰と希望と愛に満ちた明るい顔に変わります。感謝と讃美に満ちた喜び輝いた目を待ちます。このイエスさまの犠牲の血潮のゆえに、今日のクリスチャンは輝いています。イザヤ書五五章五節には十字架以降の教会時代について、「あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方」とあり、私たちを輝かせるイスラエルの聖なる方とはまさにイエスさまです。

 

 詩篇三四章五節では「彼らが主を仰ぎ見ると彼らは輝いた。彼らの顔をはずかしめないで下さい」とあります。十字架のイエスさまを仰ぎ見て世界の光として大いに輝きましょう。かの日には復活の栄光の中で太陽のように輝く時も来ます。今、人間的な体型や国籍、肌の色、器量の善し悪し等一切の関係なく、内なる聖霊さまの光で新しい人となって美しくなれます。

 

 イエスの血潮を受けて輝く魅力ある証人となりましょう。聖霊美人に人はついていくものです。

私も始めて教会に行った時、熱心な教会員たちの輝く目を発見して心ひかれた人です。黙示録一章一六節では今、イエスさまの御顔は復活・昇天により天国でいやされて強く照り輝く、太陽のような栄光に満ちています。復活の日、私たちもまた、そうなれます。

 

 イエスさまは十字架に関しては悲しみの人として苦難を受け、一時的に悲しみの御顔を持たれたことでしょうが、通常の宣教をなさった公生涯と三十歳になられるまでの生い立ちにおいては、聖霊さまの喜びと平安がいつも表情ににじみ出る気品の高い御顔をしておられたことでしょう。

 

時に笑われ、時にやさしく微笑まれ、多くの人々にも無言のうちにも平安を分け与え、周囲の人々を楽にさせるふるまいと表情に群衆は魅了されました。そのためイエスさまが弟子たちに向かって「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ1427)と語られた時、弟子たちはこの世にない平安をいつも持たれているイエスさまのさわやかな表情を見て、それと同じ平安を受けたいと一切迷いなく一層期待する心でついて来たのです。イエスさまの平安がほしかったのです。

 

 ところがもし、イエスさまが不安一杯の暗く落ち込んだ憂うつそうな重たい顔で弟子たちに向かって「わたしは、あなたがたにわたしの平安をあたえます」と、ぼそぼそつぶやいたならば、きっとペテロはそっせんして「主よ!大丈夫です。絶対結構です。わたしはもう、こんなにいっぱい満たされています。嬉しくてたまりません!」と言って得体の知れないこの世にない憂うつそうな顔の平安を断固拒んだことでしょう。

 

しかし、イエスさまの内には確かな清い天国の平安があり、その御顔の上品な喜びの表情ひとつひとつが弟子たちの心をいつも引きつけて安心させていたのです。

 

ですから、このようなイエスさまがただの一度十字架上で悲しみの人となって御顔が血潮と悲しみに覆われて損なわれた身代わりのために、私たちは絶えず涙の谷を過ぎる試練の只中でも平安を保ち、明るい希望に満ちた清い顔を天に向かって上げることができるのです。ハレルヤ!

 

悪魔にだまされて堅く暗く憂うつに落ち込んだ顔はもう過去の人、イエスの血潮によって私たちとは一切関係ありません。